今回は投稿が遅くなりました。一番暑い8月も半ばを迎えています。。新型コロナウイルスの感染者が首都圏を中心に全国的に増加する中で、私たちの生活はどのようになっていくのか、私たちの健康や今後は本当に大丈夫なのかといった不安の中にいる方々も多くいらっしゃると思います。
旧約聖書では、さまざまな病気の症状に対する対処法が示されています。当時の「祭司」は現代で言うところの医者ではありませんが、患者の症状を見て、罹患(りかん)や完治の判断をする役割も担っていました。そして、特に病人には「身を清めること」が勧められていました。その他、病人や死人と接した際も「身を清めること」が義務付けられていました。また「洗うことに」ついては、まだウイルスなどの存在が知られていない時代に、現在私たちに奨励されているものとあまり変わらない方法が聖書に教えられていることは驚くべきことです(レビ記13~15章など)。
現在でもユダヤ人は手洗いの習慣を厳格に守っていると言われます。動画などでラビたちが、起きた後や朝食前の手の洗い方をいくつも配信しています。マグカップくらいのコップに水を入れて、片方の手首から指先までまんべんなく水を注ぎ、次に反対側の手を同じように洗い、それを二回繰り返します。そして「私たちの神、王の王、世界を支配されるお方、主は私たちを祝福されるために、この手洗いの戒めを与えられた。」と祈りの言葉を唱えるようです。現在、園児や小学生の子どもたちは手の洗い方を幼稚園や学校できちんと教えられ、まんべんなく、十分に洗うように指導されていますが、その洗う姿はある意味で重なります。また、新約聖書では、「ツァラアト」に冒されていた人たちが周りの人々に恐れられていた様子が描かれています。「ツァラアト」というのは「全身の肉をむしばむ重い皮膚病」であると言われます。かつては「らい病」や「ハンセン病」と言われたり、そのことのゆえに差別を受けてきた人たちがこの日本にも多くおられました。ただし「らい病」「ハンセン病」と「ツァラアト」を同一視することはできないようです。
当時、「ツァラアト」は体をむしばむ病であり、治る見込みはほとんどない病であり、汚れた者としてのレッテルを貼られ、隔離され、人から嫌われて生きていかなければならず、孤独で希望を失って生きていました。しかし、イエス・キリストはそのような人たちにも積極的に関わり、ご自身の愛を示されました。しかも決して自分から近づくことのないはずの人が、どうしてもイエスさまにお会して、癒やしていただきたいという一心から、イエスさまのところに行ったのです。マタイの福音書8章2-3節には、
「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、『主よ。、お心一つで私をきよくすることがおできになります』と言った。イエスは手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」
この箇所は、病が癒されたこと以上に、イエスさまが救い主であることの表われです。人がどう判断し、評価しようとも、その人がどれだけ汚れていても、実際、罪深い存在であったとしても、イエスさまはすべての人を愛し、そして私たちを愛しておられるのです。その愛は、他の聖書箇所を読んでも明らかなように、イエスさま自らが進んで人々に接し、関わることを通して示されましたし、「十字架上の死」という目に見える形ではその愛が最大限に表わされたと言えるのではないでしょうか。イエスさまは、旧約聖書のように病人の隔離や身を清めることにではなく、社会から疎外されていた患者にこそ関心を示し、それらの人々のもとに出かけて行き、一人一人関わりを持たれ、触れて、癒されたということが記されています(ルカ4章40節など)。
これからも、私たちには新型コロナウイルスというこの感染症に対する正しい知識や情報に基づいて行動し、それぞれが所属する共同体(職場、家庭、学校、地域社会など)の人々と共に感染拡大防止に真摯に取り組むことがさらに求められていると思います。たとえ私たちには、まったく同じようにはできないとしても、イエス・キリストがどのようなことばを人々にかけ、どのような行動をとられたのかということは、私たちにとって大きな基準と模範になるのではないでしょうか。
そのためにこそ、聖書を通してイエス・キリストの言動を学んでみてはいかがでしょうか。