9月に入り、まだまだ暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。地域の子どもたちにとっては、長かった夏休みも終わり、学校や幼稚園などが始まりました。特に小学生には「自由研究」というものが夏休みの宿題として出されます。小学生の息子は上の写真にありますように、色のついた野菜を汁にし、レモン汁やお酢を入れて変化を見る実験をしたようです。
国分寺キリスト教会の裏の空き地や横にある農道には、バッタやカマキリ、とんぼ、トカゲ、かえるなどの生き物や昆虫が出ています。夏は、子どもたちにとって、大自然や生き物に触れるよい機会です。
聖書の中で、世界が造られた記事が書かれている創世記1章24節には、「ついで神は、『地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。』と仰せられた。するとそのようになった。」とあります。
大切なことは、それぞれの生き物、家畜、はうもの、すべてが、その種類に従って、神様によって造られたということです。「その種類にしたがって」というところが大変重要です。例えば何か微生物が長い年月をかけて、複雑な生き物になったということではなく、また魚が長い期間を経て、手や足が生えて歩けるような生き物になったということでもありません。すなわち種類を超えて進化するようなことは決してなく、明確な区別があるということです。サルはサルとして、人間は人間として尊い存在として造られたからこそ、生きる意味と目的があるのです。
聖書には神様が「すべてのものにいのちを与える神」(第一テモテ6:13)であると書かれています。神様がすべてのもののいのちの根源であるということです。私たちが今、生かされているのも神様の深い愛とご主権の中にあること、また神様は「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」であるとも書かれています(同6 :15-16)。それだけ神様は偉大なお方であるということであり、私たち人類はこのお方を礼拝し、賛美と祈りをささげることが求められています。
創世記3章を読んでいきますと、人間が神様の命令に背き、罪を犯すという歴史が書かれ、罪が人類に入り、人間は死ぬべき存在となったことが記されています。しかし聖書はそのままでは終わりません。やがて神様は人類の救いのために、罪のない、神の御子イエス・キリストをお遣わしになって、十字架の身代わりの死によって、私たちに救いの道を用意してくださいました。私たちが努力して手にするものではなく、救いは神様ご自身が備えてくださったもの、差し出してくださったものです。
昆虫や生き物さえも偶然にそこに存在するのではなく、また進化したのでもなく、神様が造ってくださったものなのです。「天地万物」と言った時、それは美しい大自然や自然界の動物だけでなく、私たち人間も含まれ、神様によって造られ、愛され、生かされています。私たちは聖書を通して、人間の現実の姿すなわち罪と闇の中にあること、神様の深い愛について、イエス・キリストの十字架による救いについて、約束されている数々の事実について知ることができるのです。それゆえに、まず神様がどのような方であるのかを、造られた私たち人間は、神のことばである聖書を通して正確に知らなければなりませんし、信じる必要があるのです。皆さんの上に、神様の祝福と平安そして守りが豊かにありますようにお祈りいたします。