牧師感話 8月 ~思うこと・感じること~

本格的な暑い夏の8月を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか。子どもたちは小学校と幼稚園が夏休みということもあり、先日、柏原渓谷の「たつたの森」というキャンプ場に行き(上の写真)、川遊びや丸い石拾いをしました。子どもたちは水遊びが大好きですが、海や川は危険も伴います。また、実家に帰省したり、親が自分たちの住んでいるところに来る予定であったりと、この時期、家族や親族にお会いする人は大勢おられます。

私の妻の実家は松山ですので比較的近いと言えます。私は所用で、1泊2日で高松に戻りましたが、妻や子どもたちは数日滞在し、楽しいひとときを過ごすことができました。私の故郷は群馬県で、今月父親が来る予定です。故郷を愛する思いは多くの人の心の中にあるのではないでしょうか。「第2の故郷」「第3の故郷」という言い方もあるように、やはり「第1の故郷」があるのです。また実際に家族に会うことによって、改めて「家族とは何か」「家族はどうあるべきか」ということを考える時にもなります。現代の複雑な社会の中にあって、「家族」と呼べる人たちがいなかったり、「故郷」と呼べる場所がない人たちがいる現実もあることを心に留めたいと思うのです。

しばしば言われることですが、「家族」というのは社会にある一番小さな単位・集合体です。そこに親類、友人、知人、身近な人たちが関わっています。「家族」という一つのテーマを考えただけでも、簡単には語りつくせません。聖書、特に旧約聖書には、実際の家族を扱った人間関係が詳細に渡って書かれ、素晴らしい愛と赦しの関係と共に、生々しい人間の醜さと罪深さというものがはっきりと描かれています。そこに書かれてある人間模様から私たちはいろいろと教えられ、そこに自分の姿を見い出すのです。私たちは普段、どのように家族に関わっているでしょうか。親に与えられた権威(権力ではなく)をどう用いるかというものも、この時代において大きな課題ではないでしょうか。

そしてもう一つ、聖書では同じ信仰を持つ人たちの共同体を「神の家族」と呼んでいます。新約聖書のエペソ人への手紙2章19節には、「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」とあります。

「あなたがた」とはこの手紙が書かれたエペソのクリスチャンたちを指しています。彼らは、かつては生きておられる真の神様を知らず歩み、さまよっていました。しかし、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって、どのような背景であれ、一つの「神の家族」の一員にされたということが書かれています。

イエス・キリストを「かしら」とする群れは「教会」です。教会とは建物を指す場合がありますが、厳密にはその群れ・集合体を意味しています。ですから、信仰者同士はキリストにあって、「兄弟・姉妹」という立場が与えられ、実際にお互いにそのように呼び合う者とされています。国籍や、民族、時代、これまで歩んできた社会的背景、そのようなものを超えて、「神の家族」が成り立っています。

「家族」、それは一般社会でもよく話題にされることですが、今月は聖書の視点から考えてみました。聖書は、人類に対する神様からの愛の手紙と言われます。私たちが生きるにあたって、聖書は大切なことを教えています。何千年という歴史の中で、書かれた聖書を通して、神様の偉大さとすばらしさ、さらには、私たちの罪のために、十字架にかかられ、死なれ、よみがえられたイエス・キリストの愛を知ってくださることを心から願っています。そして「神の家族」というものを実際に知ることができますようにお祈りいたします。。