秋の気配を感じる9月に入りましたが、いかがお過ごしでしょうか。だんだん涼しくなっていくものの、まだまだ暑い日もあるという印象です。今月は「ぶどうの木」と「枝」のお話なので、実家がぶどう園を経営しているというある牧師が2年前の10月に高松に来られ、直接いただいたぶどうの写真を載せています。
7月上旬には西日本豪雨があり、8月にもいくつかの台風があり、この香川では大きな被害がありませんでしたが、地方・地域によってはありました。また8月31日には前線の影響で東北と北陸では、断続的に非常に激しい雨が降ったとニュースで取り上げられていました。
度重なる台風や強風・豪雨などで大きな被害ではないにしても、何かしらの修理や修繕が必要になることもあります。先日、ある方の家では、アンテナに接続されているアンテナブースターの故障が原因で、テレビのBSは映るけれども、以前から地デジの映りがだんだん悪くなり、最終的には映らなくなったということをお聞きしました。専門的なことはまったくわかりませんが、電波の受信や、あるいは配線や接続がきちんとしていないと、映らないということになるのでしょう。
私はここで何か、宇宙エネルギーと私たち人間の内側にある神秘的な何かの関係についてお話するつもりはありません。また、そのようなことを肯定する者でもありません。しかし聖書は自然界の原則を用いて、大切な真理を語っている箇所があります。特に「接続していること」、「つながっているということ」について、イエス様が「ぶどうの木」と「枝」の関係を用いて大切なことを語られました。ヨハネの福音書15章には、
「15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書かれています。
まず把握したいことは、15章よりも前を読むと、イエス様は間もなく父なる神様のみもとに帰られる前に、弟子たちにいろいろなことを語っておられることがわかります。そしてこの箇所でも弟子たちそして信じる者たちがこの地上にあってどのように歩むべきかについて語ってくださいました。
イエス様は繰り返して「とどまること」「とどまり始めること」を勧めています。私たちの本来の歩みは、まずキリストとの個人的な関わりから始まります。ぶどうの枝がその木にとどまって、木から栄養をもらって、吸収して、成長するように、私たちがイエス・キリストとそのことばの内にとどまるなら、キリストからいのちをいただいて成長するのです。キリストに対する信仰に堅く立ち、キリストのことばに聞き従い、キリストとの親しい交わり、生きた関係を持ち続けることが求められています。ぶどうの枝がその木からいのちを受けることによって、実を結ぶように、私たちにキリストのいのちが流れ込んでいることによって実を結ぶことができるのです。
「実」については紙面の都合で書き記すことができませんが、この後、「わたしの父は栄光をお受けになるのです」(15:8)とありますように、ちょうどキリストがご自身の生涯を通して、神様の栄光を現わしてくださったように、私たちの生き方や歩みを通しても神様の栄光を現わすことが求められているのです。キリストを離れては何もすることができないという、弟子たちに語られたことばは深く考えさせられます。
私たちはなぜ、この地上に今、しかもこの時代に生きているのでしょうか。なぜ人間に死という現実があるのでしょうか。どこに向かっているのでしょうか。あなたの人生の究極的な目的は何でしょうか。キリストにとどまるということがどういうことであり、どのような結果が生まれるかは聖書が明らかにしています。
ぜひ、聖書のことばによって、キリストにつながって生きることの素晴らしさを知ることができますように。