6月に入り、梅雨の時期を迎えました。6月1日付けのある新聞に、栗林公園では、今、花しょうぶが見頃と書かれていました。これからアジサイの咲く時期を迎えていくことでしょう。上の写真は昨年、白金キリスト教会の駐車場で撮ったアジサイです。
先日、一つの地域教会を越えて、複数の教会が協力し合って、中・高生向けのために行われている集会(通称:シャイン/輝く)に出席しました。そこでお話した内容を簡単にしたものをここで紹介したいと思います。特にたくさんの悩みなどを抱える中・高生ですから、その悩みや思い煩いを神様に打ち明けるということ、心にある思いを正直に神様にお伝えすることについて聖書からお話させていただきました。
詩篇62篇8節にはこのようなことばがあります。
民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。
この詩篇の記者であるダビデは、「民よ」と呼びかけて、神様に信頼すること、心を注ぎ出すことを命じました。彼がこの詩篇を歌った背景(1~7節)を考えると、決してよい状況ではなく、身近な人たちから命をねらわれたり、ある時は飢え渇き、まるで耐えられないような苦しみを経験した中での告白です。
私たちはこの社会の中で生きていくときに、さまざまな悩み、思い煩いや不安、心配が私たちといつも隣合わせにあります。隣り合わせどころか場合によっては、それらが私たちを取り囲み、私たちが押しつぶされそうになることもあります。中・高生にとっても、家族関係の悩み、学校・友人関係での悩み、部活での悩み、そのほかいろいろな悩みがあります。中・高生に限らず、大人である私たちも、心の思いを、正直に、ありのままを、生けるまことの神様の前に、祈りつつ注ぎ出していいのです。
神様が「避け所」であるとはどういうことでしょうか?震災以降、「避難場所」という言葉もよく耳にします。そのままの姿で駆け込むところ、安全なところ、安心できるところです。そのような場所以上に、神様は絶対に安全なところです。私たちは神様の所に逃げ込むことができるのです。神様は私たちを愛してくださっているからこそ、私たちが心を注ぎ出して、祈ることを喜んで受け止めてくださいます。
新約聖書の第一ペテロ5章7節には、こうあります。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
「あなたがたの思い煩いを」と書かれているように、私たちには思い煩いがあるのが前提です。「ひょっとして、もし、思い煩いがあるなら」とは書かれていません。私たちのだれもが思い煩い、悩み、不安、心配、あせり、動揺などを経験します。しかもそれらを「いっさい神にゆだねなさい」「神に投げかけなさい」と書かれています。一部でも、半分でもなくいっさいを神様にゆだね、投げかけるのです。漁師が海に網を投げるように、私たちの思い煩いを神様に投げかけるのです。そうする時に神様が私たちのことを心配してくださるという確かな約束があります。もちろん祈ったからと言ってすぐに応えられるわけではありません。ずっと祈り続けなければならないこともたくさんあります。つぶやきが出てくる時、疑いが起こる時、思い煩いがある時、落ち込んだ時、心が騒ぐ時、平安を失った時、イライラするとき祈ることができる神様がおられるのです。そして、祈りによって、心を神様に注ぎ出すとき、私たちの心と思いは、すべての理解を越えた神様の平安で守られるのです。
皆さんには、心を注ぎ出すことのできる存在がいるでしょうか。確かに、家族、親族、周りの友人・知人がいます。その人たちからのアドバイスも貴重で、大切です。確かに相談しにくい状況も経験します。そのこと以上に、私たちのいのちを造られ、生かしてくださり、愛と主権をもって、ご支配しておられる唯一まことの神様に心を注ぎ出す祈りをささげることができるならば、それは幸いなことであり、また特権なのです。