春の花々が咲き始め、本格的な春がやってまいりました。菜の花はあちらこちらに咲いていて、桜も全国各地でにぎわいを見せているようです。4月は、新年度の始まりということもあって、新しい環境の中で過ごし始める人たちも多いと思います。子どもたちにとっては入園式や入学式があり、大人にとっては、転勤や異動、あるいはまったく新しいところで働く方々もおられ、新しい歩みを始める方々も少なくありません。特に何の変化もなく、これまで通りの生活を続ける方もおられます。皆さんはいかがでしょうか。
3月最後の週に、実家のある群馬県に帰省しました。上の写真は庭先に咲いていたスイセンです。自分が生まれ、育ったところに「帰る」というのは多くの人が経験することであり、一つの文化や慣習という枠を超えて、人間が持つ自然な姿なのかもしれません。本来あるべきところに「帰る」、あるいは「戻る」というのは、私たちが「選択できる」ものである一方で、場合によっては「必須条件」な部分もあると思うのです。
天地万物の創造者である神が世界と海とその中にあるすべてのものを造ってくださったと聖書は語ります。すべてのものの中に、私たち人間も含まれています。私たちはモノではなく、ほかの動物とも違って、神の息(つまり霊)を吹き込まれた存在であるのです。だからこそ、人間だけが、一つところに集まって、生けるまことの神を賛美し、祈り、礼拝をささげることができるのです。
しかし、もしこの生けるまことの唯一の神から離れているとしたら、このお方のもとに「帰る」、あるいは「戻る」ことこそ、私たち人間がしなければならない最大の「義務」ではないでしょうか。それが尊厳の回復につながります。「離れている」というのは、まさにその神を知らず、場合によっては意識的に反抗し、拒み、自分が中心となっている状態、また的外れな生き方を表していると言えますし、それこそが、聖書が語る罪なのです。
ただ、それで終わらないのが聖書の語る「良き知らせ」であり、「福音」です。「帰る」ことと関連した聖書のことばがあります。第一ペテロ2章22-25節にはこのように書かれてあります。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(新改訳第3版)
聖書の中心テーマはイエス・キリストの十字架の死と復活です。この箇所には神の御子、罪のないイエス・キリストが私たちの罪をその身に負ってくださったことが書かれています。神と人間の間における断絶を修復してくださったのがイエス・キリストです。神の一方的で無条件の愛が十字架を通して現わされました。
今年は4月1日(日)がキリストの復活を記念する復活祭礼拝でした。特に最後のところには「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」とありますように、イエス・キリストを信じる者の姿がここに書かれています。羊のようにさまよっている存在であるにもかかわらず、たましいの牧者であり監督者である神様のもとに「帰る」ことの幸いと平安を受け取っていただきたいと心から願っています。