早くも2月を迎えました。1月下旬には、各地で最強寒波が押し寄せ、東京でも約50年ぶりにマイナスの気温だったようです。地域によっては大変な積雪もありました。ここ香川県も、雨や雪の少ない地域でありますが、2月1日には深く積もるまではいきませんでしたが、雪が降りました。左上が国分寺町内で撮影した写真です。
雪国とは言わないまでも、故郷の群馬は北部が山間部なので、雪は必ず降りますし、南部は関東平野でありながら、やはり降る時は降ります。私の記憶では、幼いころのほうがもっとたくさん降りましたし、本当に小さなかまくらを父が作って、その中に上半身だけ入れている昔の写真などもアルバムに残っています。
一口に「雪」といっても、日本語でそれを言い表わす言葉の数はたくさんあるようで、降る時期によっても雪の名前が変わるようです。ちなみに「なごり雪」も、春近くに冬の季節を名残惜しむように降る雪のことを指すようです。それだけ、「雪」は奥深いものがあり、文学や音楽、いろいろなものに影響を与えています。
聖書には「雪」をたとえとして描かれている箇所があります。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(旧約聖書 イザヤ書1:18)。
この聖書のことばはどのような背景の中で、誰が誰に対して語ったのかということをまず押さえたいと思います。それは歴史を支配しておられ、礼拝を受けるべき唯一のまことの神がユダとエルサレムの罪を指摘し、悔い改めへと招いていることばです。彼らは本当の意味で神を知らず、形式だけのものを神にささげていました。彼らに求められていたことは、まことの神に立ち返り、自分たちの悪を取り除くことであり、喜んで聞き従うことでした。
当時の時代の人たちだけではありません。現代に生きる私たち人間は、真の神様を知らず、神様から遠く離れています。聖書の言う「罪」とは、まことの神に背き、無視し、その神から離れている状態のことです。人間はみな罪人です。私たちが他人を憎んだり、傷付けたりするのは、真の神から離れている結果です。神によって造られた私たちは、神から離れては本当の意味で生きていくことができません。罪を持ったままでは、私たちは滅んでしまうのです。そのような私たちが、罪と死と滅びから救われるために、神は、愛する御子イエス・キリストをお送りくださいました。キリストは、罪のない神の御子でしたが、私たちの罪のために、十字架にかかってくださいました。十字架刑というのは、当時、極悪人が処せられる死刑の方法でした。自分の罪を認め、このキリストの十字架が「自分の罪のためだった」と信じるなら、誰でも、どんな罪でも赦され、救われるのです。私たちの罪は、そう簡単に赦されるものではありません。ここに「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても・・・」とあります。人間には癒されがたい、赦されがたい罪を持っており、それが緋色で象徴されています。緋色とは、濃い明るい赤色のことです。私たちの「罪のしみ」は、どんなに頑張っても消すことができないものです。ましてや自分の力でそれを消すことができません。
イエス・キリストの十字架の血潮は、私たちの「罪のしみ」を消し去り、すなわち、罪を赦し、雪よりも白くしてくださるのです。「真っ白な雪」は清らかな感じがしますし、心を洗ってくれるような気がします。しかし、その雪よりも白いものになるのが、「罪が赦された心・罪をまったく赦された存在」です。
古い讃美歌の521番「イエスよ、こころに宿りて・・」という讃美もこのことを歌っています。イエス・キリストはあなたの罪のために、身代わりに十字架で死なれたことによって、神の愛が具体的に現わされました。すべての罪を聖め、真っ白にしてくださる神の約束を自分のものとして受け取ってくださいますように、そして寒い中、皆さんのご健康が支えられますようにお祈りいたします。