11月に入り、朝と晩だけでなく、日中も寒い日がある一方で、比較的暖かな日もありますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。山のほうでは木々の葉っぱがすでに色づいて、秋の深まりを感じる頃です。写真の葉っぱは緑ですね。後ろのほうが、少し色変わりしています。
聖書にご自身を示され、イエス・キリストの十字架によってご自身の愛を明らかにしてくださった神様は、素晴らしい、偉大なお方です。私たち日本人にとって、カミ概念はあいまいなところが多く、「多神教」と呼ばれるように多くの神々がいると考えられています。
その一方で、聖書には「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2章5節)と書かれてあり、唯一であることが強調されています。私たち日本人は、「唯一」とか「これだけ」「これのみ」というのを、嫌う傾向にあり、多種多様性を求めます。そしてそれが寛容の現われであると理解するからです。
聖書は、神は唯一ですが、その唯一の神様がどのようなお方であるかを調べると、実にいろいろな表現で書かれていることがわかります。「神は愛です。」(第一ヨハネ4:8)とありように「愛なる神」であること、また「聖なる神」、「義なる神」と表現されますし、「永遠、無限、不変の神、全知、全能にして、唯一なる絶対者なる神」なのです。そして今月、強調したいことは、神様は「慰めの神」であるということです。
聖書のコリント人への手紙第二1章3-4節には次のように書かれています。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」
特に、パウロによってコリントの教会のクリスチャンたちにあてて書かれた手紙であることも大前提として、この箇所を理解する必要があります。私たちは日常生活の中で、さまざまな困難や試練を経験します。そのような時に、多くの人が慰めや励ましのことばを必要とします。時には、ことばではなく、そばにいるだけでも、そのこと自体が慰めや励ましになることもあります。しかし人間の慰めや励ましには限界があります。限界があるからこそ人間なのです。他の人を慰めるために、人間による慰めは一切いらないとは書かれていません。神様から受ける慰めによって、他の人を慰めることができるのです。例えば、身近な人が召されるということは、関係者にとって大きな悲しみです。聖書のことばは、苦しみの中にある人々、悩みの中にある方々、慰めを必要としている人に対して、いや、すべての人に対して語りかけます。
上記の聖書箇所には、「慈愛の父」であり「すべての慰めの神」がどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださるという固い約束が書かれています。それではどのように慰めてくださるのでしょうか。それは聖書のことばによって、そして専門的な言い方になりますが、聖霊によって私たちを慰めてくださるのです。聖霊なる神様ご自身が、聖書では「助け主」「慰め主」「弁護者」と呼ばれ、かたわらにいてくださるお方なのです。皆さんにとって神様とはどのような方でしょうか。神様がどのようなお方であるのかを知ることによって、私たちの生き方が変わってくるのです。聖書を通して、神様がどのようなお方かを知り、その神様を唯一まことの神様として信じ、歩むことができますようにお祈りいたします。