牧師感話 7月 ~思うこと・感じること~

早くも7月に入りました。場所によっては梅雨も終わり、これから本格的な夏を迎えていきます。田植えも一段落して、これから苗が生長していくのをあちらこちらで目にすることでしょう。そして、やがては収穫の秋を迎えていきます。自然の美しさや季節の移り変わりを楽しむことができます。その一方で特に実家のある北関東では、この時期には、頻繁に夕立があり、雷がゴロゴロと鳴り響き(むしろバリバリと言ったほうが正確です)、稲妻がひかり、雷がドーンと落ちるのです。プラグをコンセントにさしたままにしておきますと、テレビやパソコンが壊れることさえあります。私たちは常に自然の美しさと共に脅威というものを考えさせられます。

さて、教会では毎週の礼拝のプログラムの中で「聖書交読」というものがあって、司会者と会衆で交互に聖書のある箇所を読む時間があります。聖書のことばそのものを読んで、その意味の素晴らしさをじっくりと味わうのです。聖書のことばの意味を思い巡らす時に、聖書のことばが私たちの心に響いてきます。先日読んだ箇所は詩篇147篇全体でした。紙面の都合で、すべてを紹介できませんが、7-9節には以下のようにあります。

147:7 感謝をもって主に歌え。立琴でわれらの神にほめ歌を歌え。 147:8 神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、 147:9 獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方。

7節にある「主」とは主なる神様のことを指しています。そのお方に向かって歌え、すなわち賛美をささげなさいとこの詩人は告白しています。それだけではありません。立琴で私たちの神様にほめ歌を歌いなさいと勧めているのです。その当時、立琴が使われていたことでしょう。8節では、「神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、山々に草を生えさせ」とありますように、造り主である神様が自然をも支配されるお方として描かれています。雨は時には大きな被害を及ぼすこともありますが、雨は農作物が育つためには必要不可欠であり、草や花が咲くのにも必要なものです。

上の写真は、教会のすぐそばにある農道に咲く花と用水路です。雨が降り、それが川となって流れ、やがては下流に行き、海へと流れ出ます。あるいは香川のように、ため池にたまります。あえて花だけでなく、用水路の写真も入れているのは、その水が田んぼに必要なものであり、花が偶然に咲いているのではなく、やはり、雨が降るからこそ咲くということを伝えたいからです。

植物の世界だけではありません。動物の世界に対しても神様はあわれみといつくしみを注いでくださるお方です。9節の「獣」とは動物のことを指していますし、カラス(烏)の子どもたちをも養ってくださる神様です。カラスと言いますと食い散らかすという悪いイメージが先行しますが、カラスを初めてとして鳥全般を指していると考えることもできます。「空の鳥」、「野の花」さえも偶然に生きて、育っているのではなく、そこにも神様の養いと支配が及んでいるということです。

それだけではありません。私たち人間にも、その支配が及んでいます。それに気づく(気づかされる)ということは大切なことではないでしょうか。聖書を通して、神様がどれだけ偉大なお方であり、私たちはこの生けるまことの神様の前にひれ伏さなければならないかを教えられ、私たちの生き方を考えさせられるのです。ぜひ教会の礼拝や集会へとおでかけください。そして聖書の中心テーマであるイエス・キリストの十字架の意味を知ることができますように。