牧師感話 5月 ~思うこと・感じること~

早くも5月を迎えました。いろいろ調べてみますと、いくつかの区分があるようですが、「初夏」は旧暦の4月であり、今の5月(5月6日頃~6月5日頃)とのことです。5月は寒すぎず、暑すぎず、とても過ごしやすい時期です。山の新緑も美しく、目の疲れをいやすこともあります。

3月下旬に東北に住むある方がこの香川県に来られ、その人から「魚釣りはしますか。」と問われました。私は「しないですね。海のない県で生まれ育ったので、幼い頃、川や沼で数回しただけです。」と答えましたら、「これだけ海が近いのに、もったいないですね。」と言われました。その人の問いかけがある意味大きなきっかけとなって、4月から魚のことを調べたり、まったくの初心者ですが、実際に海に行って釣りをするようになりました。子どもたちは魚の図鑑で、魚のことを私よりもよく知っています。

海の魚は「朝まずめ」や「夕まずめ」と言って日の出や日の入り頃の時刻、満潮・干潮、時合いによって「釣果」(釣れた成果)が違ってくるそうです。もちろん気温や、気候、風などによって左右されます。朝まだ暗い3時頃、家を出て、林田町にある林田新港付近あるいは高松にある港で釣りをして夜が明けたら帰宅するという具合です。上の写真は、香川県総合運動公園から見える生島湾です(高松市生島町)。今は釣りをするにもよい時期のようです。思うようにはいかず、一匹も釣れない日もありましたが、先日は下の写真のように何匹か釣れました。それが「メバル」という魚で、日本のどの地域にもいる魚だそうです。最近、知ったこととして、「メバル」は、「春告魚」とも言われるそうです。釣った魚を焼いて子どもたちが食べるのを見るのは嬉しい限りです。

新約聖書の舞台の一つは「ガリラヤ湖」というところで、漁や魚に関する記事が出てきますし、何よりも、イエス・キリストの弟子たちの何人かが漁師であったということが大変興味深いことです。ある時、イエス・キリストがガリラヤ湖のほとりを歩いている時に次のようなことがありました。マルコの福音書1章には、

1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。

この箇所の後を読んでいくと、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも漁師でしたが、イエス・キリストに従っていく場面が書かれています。「人間をとる」ということは人間をすなどる、すなわち神様のために獲得するということです。イエス・キリストは弟子たちを選び、彼らの働きを通してさらに弟子たちが生み出され、世界にイエス・キリストを信じるだけでなく、従っていく人たちが起こされ続けたのです。そして多くの迫害や殉教を経験しながらも、今に至るまで教会が存続しているのです。詳しい説明は省きますが、「魚」のマークは初代のキリスト教徒にとってのシンボルでもありましたし、現代でも外国では車のバンパーや楽器ケースなどに簡単な魚の形をしたステッカーを貼る人もいます。

この二人にとって、網を「捨てて」、「従う」ということは、明確な決断と行動でした。私たちにとっても、時として、一度きりの決断と行動が求められることがあります。このイエス・キリストに従ったのがキリスト者たち(クリスチャンたち)でした。何よりも、イエス・キリストという方がどのような方であるのかということを、聖書を通して正しく知ることができますように、そしてこれまで多くの人たちがそうであったように、その方に従っていく信仰へと導かれ、神様を中心とした幸いな生活を送ることができますように、お祈りいたします。