4月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

4月に入り、春の花が咲き始めています。4月は、新年度の始まりということもあって、新しい環境の中で過ごし始める人たちも多いと思います。小さい子どもたちにとっては一学年進級し、大人にとっても、生活環境や職場環境が変わる方々も少なくありません。特別に何の変化もなく、これまで通りの生活という方々もおられます。

3月の下旬に、子どもたちが小学校と幼稚園が春休みでしたので、飯山町にある「飯野山」に登るために家族で初めて行きました。上の写真は1年半ほど前に、あるスーパーの駐車場から撮影した「飯野山」(讃岐富士とも言われる)です。登山するコースは3つあるようで、私たちは丸亀市野外活動センターから登りました。雨が降った次の日だったことと、2歳の子どもが途中で、行くのをいやがったので、結局3合目までしか行けませんでした。3合目の地点から下に広がる町の景色を見下ろすことができ、写真をとりました。午前中に行きましたが、駐車場にはすでにたくさんの車があり、比較的、中高年の方々が多くおられました。教会がある国分寺町も、それほど高くはありませんが、山々に囲まれています。

日本でも、多くの人たちが、健康のために、あるいは本格的に登山やハイキングをします。スポーツ専門店に行きますと、登山やハイキングに関する靴、そのほか必要なものが売られています。そして日本では、昔から「山」というものを、神聖なものと考える「山岳信仰」というものがありますし、多くの山の頂上には「ほこら」があります。

聖書には、山々に関してのエピソードが出てきます。一つ一つを詳しく述べませんが、旧約聖書の詩篇121篇の1-2節には次のようなことばがあります。

121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

この詩篇の作者は、エルサレムの都へ向かう途上、都を囲んでいる山々を見上げながら、自分の人生を想い、自分の人生の守り、安全、本当の助けはどこから来るのだろうかという問いを自問自答したと考えられます。それに対して、「私の助けは、天地を造られた主から来る」とはっきり断言しています。自分の助けが主なる神様から来ていることを心から告白しているのです。ここで一つ注目したいことは、神様は「天地を造られた主」「天地万物を造ってくださった主」であるということです。つまり山々を始めとして美しい大自然は神様によって造られています。人間も神様によって造られました。しかし残念ながら、人間は神様に背いて、自分の勝手な道を歩み始めてしまったのです。真の神様を神様としないこと、まさにそれが罪です。神様から離れ、神様の呼びかけと愛に応答することのできない存在となってしまいました。しかしイエス・キリストの十字架の死と復活によって、神様は人間にご自身の愛を示されました。

この詩篇の作者は、本当の助けは、山々や大自然からでもなく、他の人たちからでもなく、それらのすべてを創造してくださった方、天地を造られた主なる神様から来ると、告白しています。実はどのように助けてくださるのかということが、この後の121篇3節以降に書かれています。

4月16日(日)の礼拝は、神の御子イエス・キリストの復活を記念し、感謝する復活祭(イースター)礼拝です。初代教会のクリスチャンたちはイエス・キリストの復活を覚えながら、主の日すなわち日曜日に、天地を造られた主なる神様に礼拝をささげました。それが今に至るまで続いているのです。教会はすべての人に開かれています。ぜひ教会の礼拝や集会へとおでかけください。心よりお待ちしています。