3月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

3月を迎え、これからだんだんと春らしくなっていく時期を迎えています。毎週、担当の方によって教会の講壇横にお花を活けていただいていますが、先週は上の写真にある花を活けていただきました。3月は「弥生」とも言われ、辞典を調べてみますと『「弥生(いやおい)」は「弥(いやいや)」→【いよいよ、ますます】、「生(おい)」→【生い茂る】と使われるように、草木が芽吹くことを意味する。そのような月であることから、「弥生」となった。』と書かれていました。昔の人たちは現代以上に、季節などを言葉に表現してきたのだと改めて実感しました。

やはり3月と言いますと、6年前の、あの3.11東日本大震災のことを思い起こしますし、忘れてはならない出来事です。6年経つにも関わらず、原発関連はいまだに収束を迎えていない現実に不安が深まり、収束まで果たしてどのくらいかかるのかという疑念が人々の心の思いを支配します。少しずつ人々の思いが薄れ、風化していく現実があるかもしれません。先日のある新聞には、福島県内の4市町村に「避難指示 今春(3/31と4/1)3.2万人解除 未解除は2.4万人」とありましたが、実際に進まない復旧・復興の上、帰還をためらう人たちも多いようです。

あのような東日本大震災、そして熊本地震などが起こった後に、キリスト教会として何ができるのか、いや何かをする前に、教会はどうあるべきなのかということを考えさせられます。教会が教会としてあるべき使命・役割というものをもう一度考えさせられます。

しばしば教会において最大の使命は、イエス・キリストの十字架による救いと愛を世界に、地域社会にそして身近な方々にお知らせし、お伝えすることであると言われます。専門用語では、「福音(ふくいん)宣教」と言ったり「福音伝道」と言ったりします。教会が教会であるために、聖書のことばによって、教会が健全に形成されていくという「教会形成」が大切です。そしてその使命に生きる時に、必然的な形で、地域社会に対して、あるいはもっと視野を広げるならば、世界に対しての働きや社会的責任というものがあると思うのです。それはキリストの教えによって世の中を良くするとか、世界を変えて、人間中心の世界平和を作り上げることではありません。

一番身近な人たちにどう関わるかということがクリスチャンたちに求められていることです。イエス・キリストは地上での生涯を歩んでおられた時、恵みとあわれみに満ちておられたお方でした。

聖書のマタイの福音書9章36節には、次のようにあります。

「また、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」

イエス・キリストは「彼らをかわいそうに思われた」とここに書かれています。「ああ、かわいそうに・・・。」という単なる同情ではなく、「深くあわれんでくださった」ということです。またイエス・キリストは出会う人それぞれの状態や境遇を把握し、理解し、場合によっては個人的に対話し、それらの人たちに接しました。聖書の中の「ヨハネの福音書」を読むとそのことがよくわかります。

大震災以降、「絆」「寄り添う」「傾聴」などの言葉が使われるようになりました。私たちキリスト教会も震災に遭われた方々だけでなく、どのような方々に対しても、キリストの愛と福音をもってお仕えさせていただいと願い、また地域に根ざしていく教会として、教会の存在をお知らせし、教会の使命を果たしていきたいと願っています。今もなお困難な生活を強いられている被災者の方々のためにお祈りいたします。