過ごしやすい5月を迎えています。依然として、新型コロナウイルスの感染が拡大し、また変異株が世界中で広がっていますので、いろいろな分野においてさまざまな対応が迫られていますし、行動の制限が余儀なくされています。このような中にあって、皆さんの日々の歩みが守られますようにお祈りいたします。写真は北部から見た山々です。
5月は「風薫る5月」とも言われます。日本とイエスさまが生活をされていた土地の気候や風土などはだいぶ違うと思いますが、聖書の時代や地理などの背景を知ることによって、さらに聖書に対する理解が深まります。讃美歌の中に「ガリラヤの風かおる丘で」【作詞:別府信男(べふのぶお) 作曲:蒔田尚昊(まいたしょうこう)】という賛美があります(教会福音讃美歌183番、新聖歌40番、讃美歌21では57番)。その1番の歌詞は「ガリラヤの風かおる丘で 人びとに話された 恵みのみことばを わたしにも聞かせてください」というものです。教会の水曜日の集会で、この賛美歌が時々リクエストされ、皆さんとご一緒に賛美することもあります。この紙面では、歌詞しかご紹介できませんが、賛美が歌詞とともにメロディーにのせられて歌われると、それは時代や場所を越えて、私たちの心に迫ってくるものがあります。歌詞の意味をかみしめながら賛美することは大切なことです。私の出身教会で、現在も用いている「新聖歌」(日本福音連盟聖歌編集委員会編集、教文館発行)には、40番の楽譜の下のほうに、聖書の箇所が記述されています。それは「それらの聖書箇所に基づいてこの賛美が作られました」、あるいは「それらの聖書箇所を参照してください」ということです。ちなみに「ガリラヤの風かおる丘で」は、歌詞が4番までありますが、新聖歌では下のほうにはマタイ5章1-7節、同14:22-23、ルカ24:13-42と書いてあります。つまり、この歌詞の1番の中の「人びとにはなされた恵みのみことば」は、たくさんあると思われますが、特に「山上の説教」と言われるイエスさまの弟子たちに対する教えを指していることがわかります。その中で、最初のマタイ5章3節に「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」というイエスさまのことばがあります。
この聖書のことばは一読すると意味がよく分からなかったり、逆の意味で取られることもあります。「心の貧しい者」というのは聖書の脚注を見ると「霊において貧しい者」と書かれています。私たちは、「貧しさ」や「豊かさ」というと経済的なことや人格的なことを考えるかもしれません。しかも、一般的な理解では「心が貧しい」というのは、度量が小さいとか、考えが偏っているとか、人間性が乏しいということを表しています。しかし、聖書が言う「心の貧しい者」というのは、むしろ「自分の心の中には、寄り頼むべきものあるいは支えや誇りとなるものは何一つない人」を指しています。だれもが「本当の心の豊かさ」を求めていると思います。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたいと願います。「心の貧しい者」が自分を支える拠り所となるものを全く持っていない人であることは、実に意味が深いと言えます。
現代に生きる私たちの実生活に当てはめるならば、自分の心の中には、寄り頼むべきものがないというのは、寄り頼むべきお方である救い主イエス・キリストなしでは本当の意味で生きることができないことを自覚している人と言えるのではないでしょうか。後半の「天の御国はその人たちのものだからです。」とその理由が書かれています。「天の御国」は「神様のご支配」、「神様のご支配が及ぶところ」です。神様のご支配は、そのような人たちにあるということです。このマタイ5章3節以降にも、どのような人たちが「幸い」なのかが引き続き書かれています。聖書が言う「幸い」とは、何か心が「幸福」とか「幸せ」ということ以上に、「神様によって祝福された」という意味があるようです。
新年度に入って、すでに一ヶ月が経過しました。皆さんにとって「幸い」とは何でしょうか。聖書を通して、神様が与えてくださる「本当の幸い」というものを知っていただき、どのような人が幸いであるかを語ってくださったイエス・キリストを知ることができますように、そして真の意味で幸いなる歩みを送ることができますように、お祈りいたします。