3月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも3月になりました。日中は、少しずつ暖かさを感じる頃となりましたが、寒い日や雨の日もあります。このコロナ禍にあって、お忙しい方々や健康の弱さの中にある方々が、神様の守りと支えのうちに過ごすことができますようにお祈りいたします。

国分寺町は縦に長いため、「北部」と「南部」という言い方をしますし、実際に小学校も「北部小学校」と「南部小学校」があります。北部に行けば行くほど、車でも徒歩でも、山の斜面を登るような感覚です。先日、用事があって、国分寺町の北部に行きました。森林のあるところや田畑のあるところでは、民家が近くにあっても、ところどころ、イノシシの檻(おり)のわなが仕掛けてあります。そして初めてイノシシが檻の中でつかまっているのを見ました。何とか脱出しようともがいていたようで、だいぶ、地面を掘り返していました。近くで農作業をしていた男性に通報しました。やはり農作物に被害を及ぼすためでしょうか、国分寺町北部に関わらず、五色台の麓あたりには畑がありますので、いくつもの檻のわなが仕掛けてあります。実際に、時々少年育成センターを通して、小学校や幼稚園から「イノシシなどの鳥獣目撃情報・注意喚起」の一斉メールが送られてきます。世界でも、ある動物を神格化したり、その一方で、「けがれた動物」としてみなしている国や地域もあるようです。

旧約聖書では当時「猪」と「豚」を厳密に区別していないと考える聖書学者もいるようです。旧約聖書のレビ記には「汚れた動物」と「きよい動物」との区別の基準が述べられている箇所があり、特に私たちが教会で用いている「新改訳聖書2017」のレビ記11:7には「豚。これはひづめが分かれていて、完全に割れているが、反芻(はんすう)しないので、あなたがたには汚れたものである。」とあります。つまり「豚」ないし「猪?」は「汚れた動物」として分類されています。新約聖書の福音書にも「豚」がしばしば出てきます。詩篇80篇13節には「林の猪はこれを食い荒らし、野に群がるものも これを食らっています。」と書かれています。

さらに注目したいのは新約聖書の使徒の働き10章の出来事です。使徒ペテロは空腹になり、何か食べたいと思いながら夢心地になって、「幻」を見たことが記されています(10章9-17節)。ペテロは「四つ足の動物、地を這(は)うもの、空の鳥」が入った大きな敷布のような入れ物が地上に降りてくるのを見ました。それらをほふって食べなさいと命じられましたが、ペテロは「きよくない物や汚れたものは食べたことがない。」と言い張りました。それに対して「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」との声を聞き、そのようなことが三回あったと書かれています。この後を読んでいくと、この出来事は単に食べ物の話、これは食べてもよいが、あれは汚れているので食べてはならないという話では終わらないことに気づかされます。確かに神様がすべてのものを創造してくださったゆえに、感謝をもって受け取る時、どんなものでも食べることができます(第一テモテ4章4-5節)。

ユダヤ人たちは当時、自分たち以外の人たちすなわち「異邦人」を「汚れた人たち」と見なしていました。しかし、神様の視点から見るならば、人間は差別なく、神様によって造られた存在であり、神様の愛の対象です。このあと、ペテロは異邦人であり百人隊長であるコルネリウスから遣わされた人たちがペテロを探し、ペテロは彼らを迎え入れ泊らせて、翌日ペテロは彼らと一緒にコルネリウスのところに向かい、出会うことになります。ペテロは多くの人たちが集まっている中で、「神は私に、どんな人のことも、きよくない物であるとか汚れた者であるとか言ってはならないこと」(28)、「神はえこひいきをする方ではなく、どこの国に人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」(34-35)と宣言し、「このイエス・キリストはすべての人の主です。」(36)と告白しました。

「あなた」という存在は、神様によって造られた尊い存在です。しかし、人間は罪のゆえに神様からはるか離れた状態にあります。しかし、その離れた状態から引き戻すために、神様がしてくださった御業がイエス・キリストの十字架の身代わりの死と復活です。どのような人であったとしても信じる人にとって「イエス・キリスト」は「主」となられるのです。ぜひ、そのことをご自身のこととして信じて受け止めてくださいますように、心からお祈りいたします。