12月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも12月になりました。クリスマスの時期を迎えています。クリスマスは神の御子イエスさまのご降誕を神様に感謝し、神様の御名を賛美する時、互いに祝う時です。皆さんそれぞれが、この1年間を振り返ってみるといろいろなことがあったと思いますが、こうしてこの時期に、救い主の誕生を聖書から確認できることは幸いです。

私たちは一般社会においてもしばしば「時」「タイミング」という言葉を聞きますし、実際に使います。聖書にも「時」が何度も出てきます。ガラテヤ人への手紙4章4-5節にはこうあります。

4 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。5 それは律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

「時」というのは神様が深いご計画の中で、定められた時を指しています。つまり神様の時が至って、神の御子であるキリストは肉体をとって、処女マリアからお生まれになられました。時間も、空間も、さらに自然界もそして私たち人間をも、すべてを造ってくださった神様が、ご自身のご計画の中で、ご自分の御子であるイエス・キリストをこの世界に遣わしてくださいました。まさに歴史を支配し、動かし、救い主がおいでになるのに最もふさわしい時を整えて、さまざまな点で救い主のご降誕に向けて最適の準備をなさったのです。それが今から約2千年前の出来事でした。どうして約2千年前の出来事が、今の私たちと関係があるのでしょうか。神様は時間をも造られましたから、時間を越えて存在するお方です。約2千年前の出来事と、私たちのこの現在を神様は同時に見ることができるお方です。人間の考えや思いをはるかに超えたところで、神様のご計画は着実に進められて行ったのです。神様はどのようにして、イエスさまを遣わしてくださったのか、それは4節の後半に「女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」と書かれています。女とは母マリアを指しています。キリストは「人」として処女マリアからお生まれになりました。しかもキリストは、神なるお方が完全な人となられたのであり、真に神なるお方(ヨハネ10:30)です。私たちのために、十字架上で死なれるためには、肉体を持たなければなりませんでした。人間は誰ひとり、罪人であることを免れることはできませんが、人となられた罪の無い、聖いキリストは、一度も罪を犯すことはありませんでした。キリストは罪を犯さなかったこと以外、すべての点において私たちと同じようになられたのです。イエスさまは、何の計画もなく、突如として出現したのではなく、神様の深いご計画に基づいて、旧約聖書に繰り返して預言されていることの成就として、時至って、この罪と汚れに満ちた暗やみの世界に、救い主として誕生されました。暗やみはこの「世界」だけではありません。さまざまな偽りがまかり通る「現代社会」や私たちの「心」もまさに、暗闇そのものであると言えます。

キリストの十字架における身代わりの死は、私たちを「律法ののろい」から贖い出すためでありました。本来、私たちは罪のゆえに神様の厳粛な裁きを受けなければなりません。しかしそのような私たちを救うために十字架にかかってくださったのです。このキリストにあって、神様の祝福は民族の壁や国境を越えて、あらゆる国の信じる人たちに与えられるのです。キリストの十字架の血によって、罪と死と滅びから救い出されます。そしてイエス・キリストを信じる者が「子としての身分」を受けるようになるためでした。イエス・キリストを自分の救い主として信じることによって、「神の子ども」としていただけることは、神様の大きな御業であり、測り知ることのできない恵みです。

このクリスマスの時期、あなたの心に、救い主イエス・キリストをお迎えできますように、そして真の平安に満たされますように、そのためにもクリスマスの本当の意味を知ることができますように。教会のクリスマスの集会に、ぜひおでかけください。