早くも6月となりました。すでに「梅雨入り」が宣言され、これから雨の多い時期を迎えます。雨は時として災害をもたらすこともありますが、この時期の雨はこれからの農作物には必要不可欠のものです。
皆さんは「自由」と言いますと、どんなことをお考えになるでしょうか。多くの人たちにとって「自由」とは「自分の好きなことを、だれにも邪魔されずに、何でもできること」かもしれません。考えますと私たちはさまざまな「自由」の中に生かされています。何かを選び取るにしても、自由に選択できる場合が多いのです。国や地域によっては、自由がない、自由が制限されていることもあります。国分寺キリスト教会の礼拝では、現在、コリント人への手紙第一9章を開き、「自由」について学んでいます。自分に与えられた自由を行使すること、自分の自由を用いるということが、時として他の人たちに対して「つまづき」などの影響を与えてしまうこともあります。
聖書のヨハネ8章31-32節には次のように書かれています。
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
イエスさまは、このところに居合わせた表面的には信じていたユダヤ人たちに対して、本当に信じたらどのようになるのか、どのように変えられるのかについて、8章の終わりまで彼らと論じておられます。この箇所のあとを読んでいきますと、信じたように見えたユダヤ人たちは、実際には本当の意味で信じていないことが明らかにされます。
自由を得るということとは、何かの束縛から解放されることです。この箇所でイエスさまは、「罪の奴隷」について触れています。神様は人間に自由を与えてくださいました。ところが、人間は、その自由をもって、神様に逆らうことを、罪を犯すことを選んでしまったのです。多くの場合、人間は「何をしようと自由である」と言って、自由を主張して罪を犯します。ところが、いったん罪を犯すと、今度は、その罪に縛られて、自由を失ってしまうのです。罪を犯している人たちは、自分の犯している罪に縛られていることに気がついていない場合があるのです。罪を犯している人は、自由を失い、罪に縛られているのです。まさに「罪の奴隷」です。
本当の自由とはさまざまなしがらみや束縛から解放された状態であり、生けるまことの神様の前で正しく歩み、正しいことを実行することでもあります。神様を信じる人はこのような自由の中に生かされていることを、「聖書」を通して絶えず確認することになります。聖書こそが、変わることのない、唯一絶対の基準です。聖書に生きることが列車のレールにたとえられることもあります。「神のことば」である聖書というレールの上を走るということが信仰です。レールの上では何か自由が制限されているように窮屈に感じるかもしれませんが、レールの上を走っているならば、きちんと目的地に到着することができます。
また、神様を信じるクリスチャンに与えられている自由を説明するために、魚のことがたとえとして用いられることもあります。最近は、海の釣りだけでなく、野池での釣りも、子どもたちと始めるようになりました。しばらく前に知り合いの牧師が、この香川県を離れ、他県に引っ越されるということもあって、野池にいるブラックバス専用の竿とルアーをくださったからです。魚は水の中にいれば自由です。しかし、釣られて、水から離れ、陸に上げられるならば、自分ではどうすることもできませんから、自由ではなくなってしまうのです。
魚たちが水の中に生きる存在として造られたように、人間は神様の愛の中に生きる者として造られました。神様に従いたくない、自由になりたいと言って、神様から離れた状態に生きるならば、実は自由の中ではなく、不自由な状態の中に生きることになります。聖書を通して「真理」と「自由」の関係を理解し、本当の意味で自由な生き方をすることができますようにお祈りいたします。