4月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

新年度を迎え、新たな変化を迎える時期ともなりました。移り変わりゆく中で、変わらないものには何があるでしょうか。世界中で、新型コロナウイルスの感染拡大によって、今も人々が不安の中を生活しています。一日も早い終息を心から願っています。

私は医者でも、感染症の専門家でもありませんので、新型コロナウイルスについて話す資格はありません。詳しいことはテレビやネット関連で情報を得ることができますし、間違ったあるいは偏った情報も流れてきます。しかし私たちは聖書からどう生きるべきか、何を待ち望んで生きるべきかということを、この時期ご一緒に考えたいのです。

聖書には天地万物の創造者なる神様によってこの世界が造られ、人間が造られ、すべての始まりがあり、この世の終りの時、すなわち、イエスさまの再臨の時に主の裁きと救いがあることが、厳粛に書かれています。

イエスさまの時代、ヘロデ神殿がありました。その神殿の素晴らしさを語り合っていた弟子たちに対して、イエスさまは、これから起こる出来事(それは将来のことも含むこと)について語った一部がルカの福音書21章11節です。

「大きな地震、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」

聖書は不安をあおるのが目的ではありません。今、話題となっている新型コロナウイルスは、「疫病」の一つと考えることができるかもしれません。「疫病」を通して私たちは何を学ぶことができるでしょうか。「疫病」というものすべてに、私たちに対する神様からの何らかのメッセージが込められているかどうかは、慎重に判断する必要がありますが、「神様の許しなしには何一つ起らない。」ことを考えると、今、私たちは神様の御前にどうあるべきか、またどう生きるか、生かされていくべきかを神様から尋ねられていると思うのです。皆さんはどう思われるでしょうか。

イエスさまがここで語っておられることの中心点は、戦争や暴動、敵対、地震、飢饉などは必ず起るが、それが「世の終わり」ではない、ということです。戦争や災害のような破局、崩壊の出来事は必ず起る、それは人間の努力によって避けることはできない、しかしそういうことがらによってすべてが「おしまい」になることはない、「終わり」はそれとは別のものによってもたらされるのだとイエスさまは語っておられます。それでは、「世の終わり」は何によってもたらされるのでしょうか。そのことがこの箇所の少し後の21章27節に語られています。27節に「そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る。」とあります。「人の子」とはイエスさまのことです。イエスさまが偉大な力と栄光を帯びてもう一度来られる「再臨」はイエスさまのご支配が「完成すること」です。この世界に終わりをもたらすのは、「崩壊や破局をもたらす力」ではなく、「永遠の御国に入る恵みを与えてくださった私たちの救い主イエス・キリスト」なのです。

皆さんにとって「信仰」とは何でしょうか。「信仰」を持つことは何か危険でしょうか。表面的に関わるのは構わないけれど、深く首を突っ込むと大変なことになるでしょうか。「信仰」とはいろいろと表現できますが、今も生きておられる神様のみを神様とすることで、この世界を冷静に落ち着いて客観的に見たり、相対化して見ることができます。何が起こっても落ち着いて冷静であることが求められています。「人類滅亡の時」ということではなく、「究極的な救いの時」であるからです。それは、再びイエスさまが来られる時、「再臨の時」です。そして神様の支配が完全に実現する時、神の国が到来する時です。つまり救いの完成の時であって実に喜ばしい時です。最後の審判で天の御国に迎え入れられる人たちは、その御国で目から涙をことごとく拭われる、そのように聖書では約束しています(黙示録21章4節、黙示録7章17節なども参照)。特に旧約聖書イザヤ書25章8節にはこう書かれています。

「永久に死を呑み込まれる。神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。主がそう語られたのだ。」

今、私たちは、この尊いいのちについて、このいのちは果たして、どこから、どなたから来ているのかを真剣に考える時が来ていると思うのです。この時期、皆さんのご健康や体調が守られますようにお祈りいたします。