10月は台風15号、19号、21号と3回に渡って日本列島の広い地域に大きな被害をもたらしました。しばしばニュースで取り上げられていましたが、栃木県の足利市と佐野市は、私の実家がある市に隣接した市です。しかも、私はその足利市内にある高校(分校)に渡良瀬川という川を毎日渡って自転車で通っていましたので、他人事ではない思いがします(秋山川は渡良瀬川に合流)。実家の比較的近くを流れる利根川も、あと数メートルで越水するところだったと聞いていますので、もし決壊や越水していたとしたら、さらに被害は広がっていたと考えられます(実際、利根川河口付近はあふれたようです)。上の写真は国分寺町に隣接する坂出市府中町の橋から見た綾川です。
JR両毛(りょうもう)線というのが群馬と栃木を東西に走っているのですが、台風直後は、大平町というところの鉄橋や線路が崩れかけ、高校(富田校舎)の最寄りの富田駅を含む一定の区間は電車が動いていなかったということも両親から聞きました。現在も電車が動いている区間とまだ動いていない区間があるようです。高校の近くの小さな川も氾濫した様子が、ある人のドライブレコーダーに記録されていて、自分の車が流される様子と共に、ニュースでも取り上げられていました。
振り返りますと昨年7月の西日本集中豪雨に始まって、大阪北部地震、いくつもの台風による被害、北海道地震と自然災害が立て続けに起こりました。アメリカでもしばしば大型ハリケーンによる被害がニュースとなることがあります。秋は美しい、壮大な大自然を楽しむ行楽のシーズンでありつつ、立て続けに起こる災害のことを考えますと、場合によっては脅威ともなる自然のことを思わずにはいられません。収穫や実りという自然界における神様の豊かな恵みの数々を数えると共に、時として自然の変化というものが私たちの生活の基盤を脅かし、人々の「心」も「体」も不安定にさせるという現実があります。
世界各地の災害に遭遇するとき、私たちは何を心に留めたらよいでしょうか。聖書に書かれている確かなことは、神の御子イエス・キリストは人々を罪と死と滅びから救うために来られ、究極的には十字架で私たちの身代わりになってくださり、尊いいのちを犠牲にしてくださいました。しかし、実はそれだけでなく、「創造の秩序」を回復するためにも来られたということです。コロサイ人への手紙1章20節にはこうあります。
「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」
神様は御子イエスさまの十字架上の血によって真の「平和」をもたらし、御子によって、御子のために万物すなわちすべてのものを「和解」させることを良しとしてくださいました。その完成は将来的に、究極的に成就することです。私たちが意識しようとしまいと、神様に敵対している人間のために、キリストの十字架上の苦難と死によって、神様ご自身が和解の道を備えてくださいました。「神との和解」が成立し、「神との平和」が与えられて初めて、日々の生活における「神の平安」が真の意味で私たちの心を支配するのです。神様が私たちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださるとの聖書の約束です。
皆さんは、本当の心の平安を持っておられるでしょうか。何をもってそれが平安であると言うことができるでしょうか。もちろん神様を信じていたとしても、不安や危機を経験し、心が揺らぐことさえあります。
教会も同じように災害などの危機的な状況を経験することもあります。「教会」はこのような危機的な状況の中において大きな役割を担っています。つまり、「教会」が「地の塩、世の光」として、この社会や世界に対しての責任があるということです。何よりも、被災地の上に、一日も早い復旧と復興があり、被災者の方々の上に、慰めと平安がありますようにとお祈りいたします。