2019年1月 牧師感話~思うこと・感じること~

早くも2019年1月になり、新しい年を迎えました。皆さんは、新しい一年をどのような思いをもって迎えられたでしょうか?皆さんそれぞれがいろいろな計画を立てたり、今年こそは、このことを実行してみたい、挑戦してみたいということもあると思います。皆さんそれぞれが、いろいろな目標や抱負、予定などを立てたかも知れません。

さて、毎年暮れにはその年を象徴する漢字一文字が発表され、大きな和紙に大きな筆で書かれます。昨年を象徴する漢字は「災」でした。いろいろ調べてみますと、「災」は2004年にも採用され、その年も台風や地震、豪雨や猛暑などの相次ぐ災害がありました。自然災害だけでなく、さまざまな暗いニュースがその漢字に込められているようです。世界規模の異常気象であることは明らかです。

6月の大阪府北部地震や、7月の西日本豪雨【広島や岡山、愛媛の南予での被害が大きかったため、教会関係でも「キリスト教会・広島災害対策室」、「岡山キリスト災害支援室」、「四国キリスト災害支援会」などが立ち上げられました】、災害、記録的酷暑、9月の北海道胆振(いぶり)東部地震、台風20号、21号、24号など全国各地で災害が相次ぎ、大きな被害をもたらしました。この辺りは大きな被害は出ませんでしたが、国分寺南部小学校の通学路に立っていたオレンジ色のコーナーミラーが根元から折られていました。そのような自然災害だけでなく、社会問題が多く発覚し、多くの人がこれらの出来事を「災」と捉えたようです。

災害は、起こらないに越したことはありませんが、大自然の脅威の前に、私たちは無力です。人間の力には限界があり、このような科学技術の発達した現代でも、地震や台風、大雨、大雪など自然の脅威の前には無力です。自然の力の前には太刀打ちできません。早速1月3日も、九州地方で地震がありました。

「災い転じて福となす」ということわざがありますように、厄介なことが一転して幸いの元に転じることもあります。「災」は、自然災害に限らず、病気や事故などで辛い思いをし、入院や手術をされる方もおられます。しかし、その中で聖書のことばに励まされ、慰められて、神様の恵みの豊かさを経験することが、信仰の醍醐味と言えます。パウロという人物は、「一つのとげ」(病)が取り去られるように、祈りました。その結果、そのとげが取り去られたかというとそうではなく、「病」といういわば「災い」の中で、神様の恵みがどれほど大きいかを理解したのです。聖書の中の第二コリント12章9節でパウロという人物は次のように告白しています。

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

パウロは主なる神様の恵みをいただいたからこそ、病は何か災いとか忌むべきものではなく、むしろ誇るもの、幸いなものになったのです。私たちの人生には、「これさえなければ、どれほど幸いになれただろう。」と思うことがあります。しかし、まことの神様を信じる時、「災い」と思えるようなことがあったとしても、「私はそれでも幸いです」と告白できるのです。

皆さんとって、今年はどのような一年となるでしょうか。私たちにはわかりません。しかしパウロが告白したように、いついかなる場合にも主なる神の力により頼んで、「どのような境遇にあっても満足することを学び」(ピリピ4章11節後半)、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ4章12節後半)と宣言することができるためにも、聖書にご自身を明らかにされた、まことの神様を信じ、信頼する一年としようではありませんか。