2021年10月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも10月を迎えました。厳密に秋はいつから始まるのかは、暦や気象庁の区分によって違うようですし、またひとむかし前と今では若干、平均気温も違っていたり、子どもと大人の、季節に対する感じ方、捉え方もまちまちです。10月になったということは2021年度が4月から始まって、ちょうど半分の上半期(前半)が終わり、下半期(後半)に入ったこと、つまり2021年度も折り返したことになります。「人生」がマラソンにたとえられることがあり、「人生の折り返し地点」という言い方もあります。また人生を四季にたとえて「人生の秋」と表現することもあります。秋と言えば、収穫の秋、読書の秋、スポーツの秋、行楽の秋、食欲の秋などと言われ、過ごしやすい時期であると共に、今、述べたことはどれも私たちの日常生活と深く結びついています。

「人生の秋」はほかの「〇〇の秋」と比べるならば、何かさびしさのイメージが先行してしまいます。心身共に衰えを感じ始める頃を指すのでしょうか。皆さんは「人生の秋」と聞きますと、具体的にはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。これまでの人生やいのちについて、そしてだれもが通らなければならない死について、また身辺整理というものを深く考える方々も増えておられるようです。「終活」ということが以前から話題となっており、書店にもそれに関連する本がたくさんあることからもわかります。お年を重ねておられる方々だけでなく、年齢の若い方々忙しい毎日の中にあって、ふと立ち止まって自分の人生について考えることは大切です。

日常生活において私たちは嬉しいこと、楽しいこと、あるいは苦しいこと、悲しいこと、つらいことなど誰もが経験することです。私たちのいのちはこの地上で終わるものではなく、聖書は永遠についても語ります。特に神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって「永遠のいのち」が与えられると聖書に約束されています。「永遠いのちと」は何でしょうか。聖書のヨハネの福音書17章3節には、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」と書かれています。人々が永遠のいのち、根本的にまったく新しいいのちをいただくために必要なことは、そのいのちの源である唯一まことの神様を知ることであり、この世界に遣わされたイエスさまを知る必要があります。もちろん「知る」というのは単に知識や情報をとして知るだけでなく、親しい関係によって人格的に「絶えず知る、知り続ける」ということです。聖書にご自身を示された神様は天地万物の神であり、私たちをも造られた創造者なる神です。そしてイエス・キリストの十字架を通してご自身の愛を明らかにしてくださいました。罪を認め、悔い改める人を赦し、ご自分を信じる人に、恵みとして与えられるものです。神様から与えられるものですから、永遠に続き、決して失われることがありません。

罪、それは神を神としないこと、自己中心・的外れな生き方を指していますが、罪から救われ、神様との関係が回復し、神様の愛の中に生かされていくいのちです。今、私たちに与えられているいのちとはまったく、質の異なる霊的ないのち、神様に属するいのちです。だからこそ「永遠のいのち」は「新しいいのち」とも言われます。私たちが普段「新しいいのち」と言う時、新しく生まれた赤ちゃんのことを指しますが、まさにイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な新しい誕生といのちがその人に始まるのです。そして神のみことばである聖書をさらに慕い求め始めます。聖書のことばを通して慰めと励ましと喜び、平安が与えられ、聖書の約束のことばに生かされていくのです。

国分寺キリスト教会では、この10月は「秋の特別歓迎礼拝月間」として、初めての方や教会に来られて間もない方々、興味や関心のある方々をお招きしての礼拝を持ちます。特に10月17日(日)はダビデ・ジャンカー宣教師をお招きしての礼拝です。詳しくはチラシ案内をホームページに載せていますので、そちらをご覧くださり、どなたでもご自由にご出席くださいますように、ご案内申し上げます。教会員一同、心よりお待ちしております。