2021年7月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも7月になりました。これからますます暑くなっていきます。暑い中、マスクをしたまま、学校生活を送る子どもたちは大変だと思いますし、このコロナ禍にあって皆様のご健康が支えられますようにお祈りいたします。

コロナ禍にありますが、先月、長男と小豆島に行く機会がありました。普段の生活の中で、小豆島に対する意識もあまりなく、近くて遠い島でした。フェリーに乗るのも久しぶりでしたが、子どもにとってはフェリーに乗るのも嬉しいことですし、いつもとは違った環境に身を置くことによって気分転換になりました。あえて綿密な計画は立てずに、小豆島観光マップやパンフレット、そしてネットをたよりに、いくつかの場所に行くことができました。

「二十四の瞳映画村・岬の分教場」はコロナで休館中でしたが、「道の駅小豆島オリーブ園」、「マルキン醤油記念館」、「道の駅小豆島ふるさと村」、「道の駅大坂城残石記念公園」「エンジェル・ロード」などです。小豆島はオリーブ製品で有名ですが、醤油、そうめん、つくだ煮など食品関係だけでなく、寒霞渓(かんかけい)や灯台、いくつもの港など絶景もたくさんありようです。日本におけるオリーブの歴史もオリーブ記念館で初めて知ることができました。オリーブオイルの用途も多岐に渡りますので、ここでは一つ一つ説明はしませんが、聖書においてオリーブもしくはオリーブ油についてはたびたび出てきます。

イエス・キリストがエルサレムで、弟子たちと最後の食事をされた後、十字架につけられる前に過ごされ場所はオリーブ山であり、お祈りをされた場所はゲッセマネというところでした。ゲッセマネは「オリーブの油しぼりの場」という意味があるようです。そのゲッセマネの園で祈られた祈りの中にこのようなことばがあります。

マルコの福音書14章33-35節「そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。』それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏して、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。」

キリストということばも本来「油注がれた者」という意味があります。イエスさまは神の御子、救い主であるにも関わらず、ここだけを読むならば、深く悩む姿やもだえ始めた姿、そして「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」とのことばは、何かイエスさまらしくないと感じるかもしれません。イエスさまは神の御子として、罪なきお方であり、死を恐れる必要がないばかりか、本来、悩み、もだえる必要がないはずです。しかし、そのような経験をしなければならなかったのは、まさに全人類の罪を背負うため、私たちが受けるべき神のさばきと刑罰をその身に受けるためでした。できることなら、十字架上での苦難の時が自分から過ぎ去るようにと祈られたほどに、その苦悩を十字架にかかられる前からすでに味わってくださり、実際に十字架の上でその苦悩を経験してくださいました。

それだけ、私たちの罪の現実というものがこのように深刻なものであること、しかし深刻なままで終わりではなく、究極的には十字架の身代わりの死によって、私たちに罪の赦しを与えてくださり、神の子どもとしてくださる特権を与えてくださいました。十字架において神様の深い愛が示され、明らかにされたということです。神様の深いご計画を限られた人間の頭脳で、すべてを理解することはできません。それでも、聖書に明らかにされた事実を自分のこととして受け止め、罪を悔い改め、信じ受け入れる時に、神様の救いのみわざはあなたのものとなるのです。「十字架の出来事は今から2000年以上も前のことだから、なぜ今の自分と関係があるのでしょうか?」とおっしゃるかたもおられます。神様は時間も空間も造ってくださり、それを越えて存在されるお方ですから、イエスさまの十字架上の死の時点と私たちが生かされている現在を、同時のこととして見ることができます。だからこそ、私たちから見て、2000年以上も前の出来事と救いのみわざが今の私たちにも適用されるのです。

聖書を通して、イエス・キリストが十字架で死なれたこと、そして墓からよみがえられた復活の意味を知ることができますように、そして、その事実を受け入れることができますように、心よりお祈りいたします。