2月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

2月に入りました。「立春」を過ぎたということは、これからだんだんと春らしくなっていくということでしょうか。まだまだ寒い日が続き、新型コロナウイルスの収束もまだ先のことになりそうですし、感染して入院されている方々や自宅待機・自宅療養されている方々の回復と、医療や福祉関係に携わる方々の上に、神様の支えと守りがあり、すべての主権者なる神様の最善がなされることを祈ります。

さて、このコロナ禍にあって、オンラインを通して礼拝や集会が行われている教会もあります。パソコンなどが有効に用いられていることは感謝なことですし、実際に距離がありながらも、あたかも距離がないかのようにその場に臨むことができます。

私たちの国分寺キリスト教会はさまざまなことに気をつけながら礼拝や集会を会堂の中で行なっていますし、それと同時にライブ配信もしています。実際にさまざまな会議がリモートで行われたり、学校側でWebを通して授業を提供するところもありますし、さまざまな事情があってオンラインで授業を受ける生徒たちの中にも、そのことによって勉強に対する姿勢、生活のリズムが良い方向に向かっている子どもたちも実際にいるようです。調べてみると海外ではその逆の方向に向かっているケースもあるようです。確かにオンラインのメリットとデメリットというものもあるかもしれません。

パウロという人物はイエス・キリストを宣べ伝えていた理由で、ローマの獄中での生活を強いられました。新約聖書のエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙は「獄中書簡」(ごくちゅうしょかん)と言われます。パウロがそれらの手紙を書き送った時にはその人たちとは会えていない状況にありました。コロサイ人への手紙2章5節で、パウロはコロサイにある教会のクリスチャンたちに対して「私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、あなたがたの秩序と、キリスト・イエスに対する堅い信仰を見て喜んでいます。」と書き記しました。離れていても「共にいる」ということです。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストにつながっていたからこそ、このようにパウロは告白することができました。私たちのことを考えますと、状況は違いますが、実際に健康がすぐれず、病床にあってなかなか相手にお会いできない場合もあります。長らく入院されている方もおられるかもしれません。またお忙しいために会うことができない場合もあります。また「三蜜」を避けているためにしばらくお会いできない方もおられます。

現代でも、イエス・キリストを信じる者たちが、上記のようにさまざまな事情で直接会うことが困難な状況の中にあったとしても、またパソコンなどで画面越しに簡単に会うことができたとしても、パウロのような思い、すなわち、実際に距離が離れていても、「霊において」相手と「共にいる」という認識を持ちたいものです。そしてそのような思いだけでなく、5節の後半に書かれていますように「秩序」「堅い信仰」を見て喜んでいたパウロのように、離れていてもお互いがお互いの「秩序」と「キリスト・イエスに対する堅い信仰」を見させていただき、共に喜ぶ存在でありたいと願っています。

実際の距離の問題だけではありません。それぞれが、今、置かれている立場や状況、環境の違い、心理的な隔たりといったような、さまざまな違いや隔たりがあるからこそ、それらをしっかりと認識することでその違いを乗り超えていくために、相手のことを絶えず心に留め、祈る者でありたいのです。パウロは、いつもコロサイの教会のために祈り、神様に感謝し(コロサイ1章3節)、ピリピの教会のことは思うごとに、神様に感謝し、祈るごとにいつも喜びをもって祈りました(ピリピ1章3-4節)。皆さんは、今のこの状況をどのように捉え、把握されるでしょうか。日々、神様の守りと平安のうちに過ごすことができますようにお祈りいたします。