牧師感話 2021年1月 ~思うこと・感じること~

2021年を迎えました。謹んで新年のご挨拶を申し上げます。皆さんにとって2020年はどのような年だったでしょうか。一般社会では昨年を表す漢字は「蜜」でした。一年という長い期間を漢字一文字で表すことは難しいかもしれませんが、皆さんにとって漢字一文字で表すとどのような漢字になるでしょうか。また新しい年はどのような一年になるかわかりませんが、すべてのものの支配者であられ、主権者であられる神様が深い愛によって導いてくださることを確信しています。

私にとって昨年を漢字一文字で表すとしたら、「新」という漢字を思い浮かべます。教会の「新会堂」が完成したのは2019年11月末ですが、12月から「新会堂」での礼拝や集会が始まり、1年が経過しました。2月には献堂式が行われ、「新たな思い」をもって、神様を礼拝する時となりました。「新型」コロナウイルスの世界的感染拡大によって、「新しい」生活様式を誰もが工夫しながら送っていますし、最近さらに感染拡大の傾向にありますが、コロナの収束(終息)のためには引き続き祈っていきたいと思います。そして国分寺キリスト教会では、12月27日(日)には洗礼式が執り行われ、一人の女性が洗礼(バブテスマ)を受けられました。洗礼とは、簡単に説明すれば、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の救い主として信じた結果として教会の洗礼槽で行われる水の中に入って出る公の儀式です。牧師が司式をして執り行います。その方の「新しい歩み」はすでにイエス・キリストを信じた時から始まっていますが、公の洗礼式は「新しい人生」のスタートとも言えます。なぜならば、一つの区切り以上に、洗礼(バプテスマ)は重要な意味を持っているからです。国分寺キリスト教会のホームページのトップには新会堂の写真を担当者に載せていただき、また聖書のことば(聖句)も載せています。それは、新約聖書のコリント人への手紙第二5章17節です。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

聖書には天地万物とその中にあるすべての物が唯一まことの神様によって造られたと書かれています。存在するもので、偶然にできたものは何一つありません。私たち人間も神様によって造られましたが、実は神様に背いてさまよっている状態です。唯一まことの神様を神様とせず、神様に背を向けた状態である罪を持ったままでは神様の永遠の祝福をいただくことはできません。上記の「だれでもキリストのうちにあるなら」とは「だれでも自分の罪を悔い改め、神の御子イエス・キリストを自分の救い主として信じて、キリストにつながっているならば」とも言えますし、その人には「新しく造られた者」という素晴らしい・新しい立場が与えられるのです。「新しく造られた存在」ということは、イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、信じるその人の罪が完全に赦され、永遠のいのちをいただき、神の子どもとして、神様の愛と恵みのうちに生かされていくことができます。たとえ古いものが過ぎ去ったようには感じなくても、感情に左右されず、事実として古いものがすでに過ぎ去り、立場としては「すべてが新しくなった」というこの宣言が約束されています。

コロナ禍にあって先行きが見えない不透明な時代です。また矛盾に満ちたこの社会、理不尽と思えるような世界の中で、人間は本当の愛を必要としています。その真実な愛を神様が具体的に表してくださいました。聖書を通して神様のその愛を知ることができますようにお祈りいたします。