11月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

月日が経つのは早いもので、11月を迎えました。昨年の今頃はどうだったのかということを振り返ってみると、国分寺キリスト教会は新会堂建設の完成に向けて大詰めを迎えていました。11月末に新会堂が完成したのが、まるで昨日のことのようです。今の社会情勢などを考えると、改めて、その「時」が「神様の最善の時」、神様が完成させてくださった「時」であったことを実感しています。

イエスさまの兄弟たちの提案に対して、イエスさまは次のように答えている場面があります。ヨハネの福音書7章6節には、「そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時(カイロス)はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」と書かれています。また8節後半でも、「わたしの時はまだ満ちていないのです。」とおっしゃいました。イエスさまはご自身の「時」が彼らの「時」とは明らかに違うことを語られました。イエスさまは常に父なる神様のみこころを第一にしておられましたから、イエスさまの「時」は、神様が願う時でした。ここに「時」ということばが出てきます。それも「わたしの時」とあります。この7章6-8節で使われている「時」(カイロス)は、この福音書ではここにだけです。もう一つの言葉である「時」(ホーラ)も重要な意味を持ち、イエスさまの「十字架の死」と「復活」、「昇天」と関連があります。ここでの「わたしの時」とはイエスさまが十字架につけられるために定められた時を指しています。「あなたがたの時」という表現と対比して、ここでの「わたしの時」はまずエルサレムに上ることを指しています。この時点では、イエスさまがエルサレムに上り、世に対して十字架の贖いを通して、ご自身を現わすのに、まだふさわしい時ではありませんでした。私たちの主であるイエスさまは、神様によって準備された最善の時とご計画の中に生きておられたのです。イエスさまがご自身の栄光を現わされたのは、目を見張るような奇蹟にではなく、究極的な十字架の苦難と復活、そして昇天においてでした。そこにこそイエスさまがご自身に与えられた使命をまっとうする姿がうかがえます。イエスさまはたびたび「わたしの時はまだ来ていません。」という言葉を繰り返されたのです。そしてついに、十字架にかかられる前夜、イエスさまはとりなしの祈りの中で、ついにその「時」が来たことを宣言されました。同じヨハネの福音書17章1節にはこうあります。「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。・・・』」

イエスさまの歩みと行動は決して偶然ではなく、父なる神様よって定められたご計画によることを断言しておられます。しかも究極的な「十字架の贖いのわざの成就」という神様のご計画に合わされていましたし、イエスさまは神様のご計画に従ってご自分の「時」を慎重に判断し、行動されました。

「時」ということに関して、私たちが学ぶことができるのは神様の「時」は、私たちが考える「時」とは異なっていることがあるということ、むしろ多いということです。私たちは人間的な見方で「時」というものを計ってしまったり、「時」というものは神様の完全なご計画の中で決めてくださったものであることを忘れてしまうことがたびたびあります。私たちが神様に祈り求める時に、自分の考える時や方法によってかなえてくださるように求めて、かなえられなければがっかりしたり、失望したり、思わぬことに遭遇すると、神様の御業に対して疑問を持つことさえあるかも知れません。神様はご自身の時と方法によって働かれることを、私たちはいつも心に刻みたいと思います。私たちに必要なことは日々、永遠の視点、神様の視点から物事を見る目、そして受け止める信仰ではないでしょうか。

旧約聖書の伝道者の書3章11節には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・」とあります。私たちは神様がなさるすべてのことを完璧に理解し尽くすことはできません。しかし、そのすべてを時にかなって、ベストタイミングでなさるお方です。たとえ神様がなさることが、私たちにとって「美しい」ように感じられない時があったとしても、神様の側ではそれを「美しい」、「うるわしい(文語訳)」ものにしてくださるとの約束は、私たちの生き方にどのような素晴らしい影響を与えるでしょうか。神様は最善の時に最善のことを行なってくださいます。それは神様が私たちを子どもとして扱ってくださり、限りない愛をもって愛してくださっておられるからです。その事実を深く受け止めてお互い歩んでいきたいと願っています。