5月 牧師感話 ~思うこと、感じること~

早くも5月となりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。新型コロナウイルスの感染は国や地域によってさらに拡大しつつあり、今も人々が不安の中を生活しています。果たして、いつまで続くのだろうかという問いかけと共に、この新型コロナウイルスの蔓延によって、私たちのライフスタイルや生き方、家族や地域社会の在り方、仕事や教育に対する取組みなどあらゆる分野に渡って影響を受けて、改めて根本的なことを問いかけられているような気がします。

新型コロナウイルスの話題ばかりがあちらこちらで目立ちますが、それを否定することはできません。「いのち」にかかわることですし、ある意味「死」と隣り合わせでもありますので、このことを無視して生活することはできないからです。ただし、このことばかりに目と心を奪われて、左右されてしまうならば、そのことに支配されてしまうことにもなります。冷静に現実を受け止め、対処する心構えが必要になるということでしょう。さまざまなところから情報を得ることができますが、それらの情報がすべて真実であるのか正しいのか、あるいはそうではないのか、判断するのは難しい面もありますが、私たちは真実と事実に心を向けたいと思うのです。

聖書には神様がどのようなお方であるのかが、至るところに書かれてあります。特に、今、国分寺キリスト教会の礼拝で取り上げているコリント人への手紙第一の8章5-6節にはこのように書かれています。

というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ神々と呼ばれるものが、天にも地にもあったとしても、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。」

文章の途中からですが、聖書は父なる「唯一の神」がおられ、すべてのものはこのお方から出て、やがてこのお方のもとに至ると語ります。聖書にご自身を示された「唯一の神」のみがこの世を支配して動かしておられます。すべてのことが神様の許しのもとにあります。そして「唯一の主」であるイエス・キリストがおられます。そしてこのお方によって世界も、世界の中にあるものすべても、そして私たちも存在していると書かれています。確かに神々と呼ばれるものがたくさんあります。しかし、生きて働く神様は、すべてを支配し、愛と主権をもって導いてくださる神様です。

私たちは日常生活の中で、さまざまな苦難や苦しみ、痛みを経験します。それらが絶えず私たちの生き方を圧迫することもあります。しかし、私たちの罪のために十字架の苦難と死を引き受けてくださったイエス・キリストというお方を「唯一の主」として信じ、生かされていくならば、私たちが苦しみの中に置かれていたとしても、聖書を通して慰めと励ましをいただくことができるのです。神様は私たちが経験する一つ一つの苦しみの原因を懇切丁寧に教えてはくださいません。「まったく分からない」というのが正直な告白かも知れません。しかし、私たちの罪のために十字架での苦しみと死とを引き受けて救いを完成させてくださった主が共にいてくださるゆえに、私たちの苦しみは、主イエスさまご自身の苦しみと重なり合ってくるのではないでしょうか。たとえ苦しみの原因を知ることはできなくても、その苦しみは「意味のないもの」ではなくなるのです。そしてそこには、「苦しみに耐える力」「試練から逃れる道」も与えられます。十字架上の苦しみと死とによって主イエスさまが与えてくださった尊い救いの恵みを信じて、苦しみに耐えることができるようになるのです。そこにはまた「真の希望」も与えられていきます。

父なる神様が主イエスさまを復活させてくださったように、私たちにも、罪と死の力に勝利する「新しいいのち」と「新しいからだ」とを与えてくださるという確かな希望です。唯一の神を信じて、苦しみの中でも希望を失わず、忍耐して生かされていく歩みが、唯一の主イエス・キリストによって与えられるのです。ぜひ、この世界的に困難な、そして危機的な時期に、この聖書の希望をご自分のものとしてくださいますように心よりお祈りいたします。