2020年1月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも2020年を迎えました。皆さんにとって、今年はどのような一年を期待しておられるでしょうか。また昨年はどのような一年だったでしょうか。国分寺キリスト教会にとって一番大きな出来事は、会堂(礼拝堂)が新しく建築され、12月に完成したということです。この国分寺町にある教会として、さらに地域に根ざし、聖書のことばに根ざしたいと願っています。

さて、今年は東京オリンピック、パラリンピックが開催されます。すでにニューイヤー実業団駅伝や箱根駅伝も終わりました。聖書の記事が書かれた時代にもスポーツや競技のことが「たとえ」としていくつか挙げられているのは興味深いことです。パウロという人物は「兄弟たち」と愛するクリスチャンたちに呼びかけて、自分が励んでいること、行なっていることを述べています。聖書のピリピ人への手紙4章13-14節には、以下のようにあります。

「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」

駅伝の選手に選ばれるため、あるいはオリンピックの内定をもらうために、それぞれのスポーツ選手(アスリート)が、少しでも良い結果や記録を出すために、日々、精一杯頑張っています。多くの人たちが賞やメダルという目標を目指して頑張っています。団体競技であれば、思わぬアクシデントに見舞われ、途中で交代せざるを得ない選手もいますし、ケガやさまざまな理由で裏方に徹する選手たちもいます。どの競技でも上の試合に勝ち進むために、また優勝や少しでもよい結果を目指して、精一杯努力するアスリートの姿から教えられることも多くあると思います。

クリスチャンとは「神様によって罪を赦された人たち」のことを指します。立場としては罪から救われた存在ですが、たちまち完全になるわけではなく、成長の過程の途中段階にあります。クリスチャンは、キリストによって愛されていても、不完全な者でしかありません。それでも「うしろのものを忘れ」「前のものに向かって身を伸ばし」走っています。「うしろのものを忘れる」とは、単に自分の犯した過去の罪の記憶を忘れるとか、思い出さないということではなく、前進を妨げる罪を主なる神様の御前に告白し、悔い改め、へりくだるということが不可欠なことです。

多くのスポーツ選手は、一度レースで一位になったり、優勝したからといってそれで競技に出なくなるわけではありません。何度でも同じレースにチャレンジして、記録を塗り替えようとします。そのようにパウロは、日々、新しい思いをもって、神様の賞(栄冠)を求めて走り続けました。「前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために」走り続けることが、クリスチャンには求められています。確かにパウロ自身は目標を目指して一心に走っていました。パウロは「これから目標を目ざして走りたいと思います」というような決心のことばは言いませんでした。すでに走っていたのです。ここでの目標というのは、私たちそれぞれが持つ「人生の目標」というよりも、クリスチャンたちが共通のものとして持つ目標です。パウロは、はっきりとした目標を読者に、そして私たちに与えています。それは「その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」ということです。

「その賞をいただく」とは、神様が私たちに送ってくださったイエス・キリストの「栄光と同じ姿に」変えられることです(4章21節参照)。それは現在のことでもあり、終末的な、究極的な出来事を含むものであり、まさに目標でもあります。では、私たちはどのようにしてこの目標(ゴール)に到達することができるのか。それは、そのことを生涯かけて追い求めていくことによってです。

今、皆さんが追及しているもの、またゴールは何でしょうか。聖書を通して、神様がどのようなお方であるかが分かってくるとき、私たちの生き方そのものが変えられ、生きる目標や意味が明確にされていきます。新しい年、聖書を通して、教会の礼拝や集会での学びを通して、神様の素晴らしさと共に、人生いかに生きていくべきか、生かされて行くべきかを深く知ることができますようにお祈りいたします。