6月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも6月を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか。これから梅雨の時期を迎えていきます。香川県に住む者にとって、この時期、どのくらいの雨が降るのかは気になるところです。今年は、早明浦ダムの利水貯水率が例年の平均よりもだいぶ下回っているとのことです。適度な雨は農作物にとっても、私たちにとっても必要です。写真は以前に咲いたアジサイを撮影したものです。

さて、先月のことになりますが、教会員のお母様であられる方が洗礼を受けました。教会用語では「バブテスマを受ける」とか「受洗する」とも言います。教会に来られているお孫さんから見れば、おばあちゃんにあたります。その方はちょうど年齢が100歳で、100歳と聞いただけでも、これまでの長い人生の中で、さまざまなご苦労をなさって来られたことが推測できます。教会の出席ノートを読み返すと、2013年4月以降、教会の日曜礼拝にも時々出席されていました。年を重ねるにつれて、礼拝出席が困難になってきましたが、娘さんの希望もあって、しばらく前から家庭集会が始まりました。そして家庭集会の前に、賛美歌を歌い、短く聖書のお話をさせていただき、祈る時間を持ちました。今でも手を添えるとご自身で歩くこともでき、食事もご自分で召し上がることができますので、お年を重ねながらも、ご健康が支えられています。

テキストなどを用いて、個人的な聖書の学びを通して、繰り返し、聖書の基本的なことを確認させていただきました。聖書の神様は唯一のまことの神様であること、その神様が天地万物(宇宙や自然界の動物など)を造ってくださった創造主なるお方であること、また私たち人間をも造ってくださったこと、人間は神様に背き、自分の思うままを歩んでいる罪人であること、しかし神様は人間に対して愛とあわれみを注ぎ、滅びることを望んでおられないこと、そのために神の御子イエス・キリストをこの世界に遣わし、私たちの罪のために身代わりに十字架で苦しまれ、死んでくださり、3日目に死の力を打ち破ってよみがえられたこと、聖書が語る救いつまり、罪と死と滅びからの救いについて、人間が死んだ後どうなるのかというについて、罪を悔い改めること、神の御子イエスを自分の救い主と信じるならば、天国と永遠の世界が約束されていることなども確認させていただきました。むしろ牧師である私自身がいろいろと教えられ、その方の姿勢からも学びました。本来私たち人間は救われるべき資格や価値などは持ち合わせていません。しかし神様が用意してくださった「救い」を信仰によっていただく道が、イエス・キリストを通して備えられました。聖書にはこうあります。

ローマ10章9-10節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。」

私たちの努力や良い行いによって救われるのではなく、口でイエスを主と告白すること、心で神様が神の御子イエスをよみがえらせてくださったと信じるならば、救われると書かれています。口で告白することも、心で信じることも別々のことではなく、互いに密接な関係があります。決して難しいことではありません。自分という存在を聖書に照らしてみると自分の本当の姿、存在価値が分かってきます。聖書のことばが自分に語られていることを知れば知るほど、自分がどうしなければならないのかも分かってくるのです。

確かに、人は何歳になったとしても、たとえ神様に背いて生きていたとしても、神様の深い愛が注がれており、地上に生かされている限り、救われるに遅いということは決してありません。もちろん聖書の伝道者の書12章1節には「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。・・」と書かれていますように、若い時に創造者なる神様を信じて、若い時から、神様と共に歩むこと、神様に導いていただく人生を送ることの幸いがあるのです。この文章を今、読んでおられるあなたが、聖書を通して、信じることの幸いと神様に愛されていることの事実を知り、それを確かなものとしてくださいますようにお祈りいたします。