4月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

新年度の4月になりました。春の暖かな日を迎え、すでに菜の花はあちらこちらに咲いていて、これから桜やほかの春の花々も私たちの心を和ませてくれるでしょう。上の写真は、以前、教会近くの橘ノ丘総合運動公園の敷地内で撮影した桜です。

私たち国分寺キリスト教会は新しい礼拝堂(新会堂)を建てることが決まり、この春、いよいよ着工に移ることになりました。私は建築のことはよくわかりませんが、家を建てるためには、基礎工事が大切であると言われます。大きな建物であればあるほど、基礎工事をしっかりしなければなりません。特に、地震の多い日本では、地震に強い建物が求められます。耐震や免震、制震ということばは常に聞きます。実は私たちの人生においても、「どういう人生を送るべきなのか」ということのために、その土台、基礎が大切です。困難や問題の絶えない私たちの人生ですが、どうしたら、確かな人生を送ることができるでしょうか。

聖書のマタイの福音書7章24-27節にかけて、イエス・キリストは、私たちの「人生」を「建物」にたとえておられます。このたとえには、「二人の人」つまり「賢い人」(24)と「愚かな人」(26)が出てきます。そして「二種類の家」つまり「岩の上に建てられた家」(24)と「砂の上に建てられた家」(26)が出てきます。私たちはこの箇所から私たちの人生について、いろいろなことを考えさせられます。紙面の関係でこの箇所のすべてを取り上げることはできませんが、24-25節を中心にイエス・キリストご自身の言葉を考えてみます。

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」

「岩の上に家を建てる」とは、何かイエス様の言葉に従って、しっかりと生きるように戒められているように思われるかもしれません。「強く生きて、嵐が来ても倒れないような家を建てなければいけない、頑張らなくてはいけない。」と思って、読んでしまいます。しかし、イエス様は頑張って立派な人になりなさいとは決しておっしゃいませんでした。イエス様が言われたのは「それでも倒れなかった」ということです。「岩」というしっかりとした土台が据えられていました。私たちに当てはめるならば、その「岩」とはイエス・キリストです。神の御子キリストは私たちを救うためにこの世に来られ、私たちと同じように苦しみを味わい、最後には、十字架にかかられました。そのイエス・キリストは、死からよみがえられ、今も私たちを愛し、十字架の上で私たちの全ての罪を受けてくださったのです。神様は人間が、神様ご自身の元に立ち返ることを望んでおられます。

イエス様は岩の上に家を建てた人のことを「賢い人」と表現しました。聖書の中で言う「賢い人」とは、世の知恵や自らの経験に頼らず、神様が語ってくださるみことばに聞き、神様に信頼する人を指しています。

聖書には、イエス・キリストは変わることのないお方であると書かれています。聖書を読むと、イエス・キリストがどのような方であるのかが理解できますし、私たち人間に対する神様の愛と真実は変わることがないということを知ることができるのです。これはとても大切なことです。移り行く社会や世界の中で、私たちは不動のもの、変わることのないもの、堅固なものを土台とする人生を問われています。私たち人間は周囲の状況や環境に左右されやすい存在です。それは当然の姿です。しかし今、自分が順境の中にいようとも、逆境の中にいようとも、いつまでも変わることのないイエス・キリストを人生の土台として生きていくなら、確かな人生を送ることができるだけでなく、そのイエス・キリストが私たちと共にいてくださるのです。ぜひ、この事実を心に留めていただきたいと願っています。