3月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも3月を迎えています。2月下旬は、晴れの日は比較的暖かく、雨の日はとても寒い日でした。3月に入っても、気温差がまだまだあります。アメリカ中西部では記録的な大寒波が押し寄せたり、その逆に英国で気温が20度まで上昇し、冬の最高気温の記録を更新したり、ロンドン中心部の公園で日差しを浴びながらくつろぐ人たちもいたとニュースになっていました。私たちの住む地域も3月となれば、これからだんだんと暖かくなっていく印象があり、春がすぐそこまで来ています。

国分寺町北部に見晴らしの良い、比較的広い公園(如意輪寺公園)がありますが、公園でありながら、興味深いことに、足つぼマッサージ用にいろいろな石が、さまざまな形で敷き詰められている、長さ数メートルのスペースがあります。私は専門的なことは分かりませんが、足つぼ用の石を踏むことによって「血液の流れ」がよくなり、健康増進につながるようです。もちろん1回行なって、すぐに効果が出るものではありませんが、何事も継続して行なうことが大切であるということなのだと思います。

私たちはケガをして少し出血しただけでも慌てることがあります。小さな子どもが転んで、すり傷などができると、すぐに泣き、「ばんそうこう」をつけたがります。それだけ痛いということを訴えるのです。

新約聖書の中心はイエス・キリストの「十字架の死」と「復活」という歴史的事実です。イエス・キリストは、すべての人の罪のために、十字架にかかって苦しまれ、血を流され、死なれたことが聖書に書かれています。つまり「血を流す」ということはそれほどに、大きな犠牲であり、神様に背を向けて生きている、いや、さまよっている私たちが、本来受けなければならないほどのものだったのです。

聖書のエペソ人への手紙1章7節には、次のように書かれています。

「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」

エペソという町にある教会(クリスチャンたち)にパウロという人物は書き送りました。もちろん私たちに向けても書かれています。すなわちイエス・キリストが十字架の苦しみと死を通して、救いを完成してくださったので、その救いを信じる人たちには贖いが与えられ、罪の赦しを確信させています。十字架上の苦しみ、痛みはまさに私たち人類のためだったのです。

「贖(あがな)い」とは「代価を払って買い取る」という意味があります。すなわち、イエス・キリストの尊い血が十字架上で流されて、その死によって、救い主として信じる人たちの罪が赦されて、神様との正しい関係(回復された本来あるべき関係)が与えられることを指しています。もちろんそれは「神の豊かな恵みによること」であると続けて書かれています。

「そんな外国の話、それも昔の話は自分とはまったく関係がない。」とおっしゃるかも知れません。なぜイエス・キリストはこの世界にお生まれになったのでしょうか。それは、私たちがまことの神を神としない罪のために、身代わりとなって十字架にかかって、死なれるためでした。まさに人類のため、死ぬために生まれたのです。イエス・キリストは十字架にかかられ、血を流され、死なれました。しかしそれでおしまいではなく、3日目に、よみがえられ、天に昇られ、目には見えませんが、今も生きておられるお方なのです。やがていつの日にか、再びこの地上に戻って来られるという約束までなさいました。これらの出来事は、まぎれもない歴史的事実です。皆さんも、その事実を自分自身のこととして、受け入れてくださることを願っています。