5月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

5月に入り、大変過ごしやすい時期を迎えています。先日、近くの堂山(標高304m)に息子と一緒に登ってきました。展望台(標高274m)から見える景色はとても美しいもので、瀬戸内海や高松中央高速自動車道も見えました。

先日、ある男性からお電話があり、その方に直接、教会でお会いしてお話をうかがうことができました。あまり詳しいことは述べることはできませんが、その方は身近な家族や友人たちとも疎遠になってしまい、「話し相手になってくれる人がいない」、「友達もほとんどいない」とおっしゃっておられました。確かに私たち人間は人と人のつながりの中に生きています。よく言われることですが、「人間」は「人」との「間」と書きますので、人と人との関係性の中で、初めて自分という存在に向き合えるのかもしれません。

その一方で、場合によってはその人間関係が複雑であるゆえに、その人間関係に疲れることもあるでしょう。あるいは大きな励ましや慰め、力強い勇気を友人から、あるいは他の人からいただくことも少なくありません。また現代はSNSの時代ですから、直接会わなくても友達になることができたり、逆に、そのような手段では表面的な友人関係しか築き上げられないという欠点があるのも事実です。

昔、私が幼い頃、「あらいぐまラスカル」というアニメがテレビで放映されていました。そこにはあらいぐまのラスカルと共にスターリングという少年が登場してきます。最初のオープニングソングではスターリングの立場で歌われ、その最後のところで「・・かみさまありがとう ぼくにともだちをくれて ラスカルに会わせてくれて ラスカルに会わせてくれて ありがとうぼくのともだち ラスカルに会わせてくれて」という歌詞があります。それはスターリング少年とあらいぐまの関係ですが、スターリングにとっては、ラスカルが友だちなのです。第1話では教会や牧師も登場してきます。アニメですが人間とあらいぐまとの関係の親しさが伝わってきます。

聖書の中にもたびたび、「友」に関してのことばがありますが、以下のことばは私たちにとって大切な事実を言い表しています。イエス・キリストが語ってくださったことばをヨハネという人が書き記しています。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これより大きな愛は誰も持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。・・・わたしはあなたがたを友と呼びました。・・・」(ヨハネの福音書15章13-15節)

イエス・キリストは弟子たちに向かって「互いに愛し合いなさい」と大切なことを命じてくださいました。そして互いに愛し合うならば、キリストがその人を「友」と呼んでくださるということです。ということは、私たちにとってもキリストが「友」のような存在となってくださるということでもあります。そのために神様はどのような素晴らしいことをしてくださったのでしょうか。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)

とても「友」とは呼ばれる資格も価値もない、いやむしろ、まことの神を無視し、背を向け続ける私たち人類の罪ために、キリストが十字架にかかってくださり、文字通り、いのちを捨ててくださいました。そして、もし私たちが心を開いて、受け入れるならば、イエス・キリストは、喜んで、私たちの友になってくださるのです。

皆さんの周りには「本当の友」、「真の友」と呼べる人はおられるでしょうか。イエス・キリストご自身が私たちを「友」と呼んでくださり、私たちにとっても「友」となってくださるかたです。そして友となってくださるだけでなく、まさにいつも「共」に、一緒にいてくださる救い主がイエス・キリストなのです。