3月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

3月を迎えました。「春一番」の風も吹きましたし、厳しい寒さも少しずつ和らぎ、暖かさも感じられる時期になりました。教会の近くでは、梅の花が咲き、菜の花やスイセンを初めとしてたくさんの春の花が咲いていくことでしょう(写真は講壇のお花)。

教会で歌う「教会福音讃美歌」の中に55番「シャロンの花」(イエス・キリストを賛美した曲)やイエス・キリストの復活祭の時期に歌う、旧・讃美歌496番「うるわしの白百合」があります。私が聖書学校3年の時に研修生として1年間奉仕した教会には「婦人会」があり、愛称として「野のゆり会」と呼ばれていました。その時の牧師夫人は花に大変詳しく、教会の講壇の生け花も毎週活けておられました。その牧師夫人が説明しておられたのを今も記憶していますが、聖書に出てくる「野のゆり」というのは私たちが想像する「ゆり」ではなく、むしろアネモネに近いものであるとおっしゃっておられました。

イエス・キリストは「山上の説教」で、栄華を極めたソロモン王との対比で「野のゆり」「野の花」(マタイ6章28節)について触れています。聖書の中のマタイの福音書6章28-29節には、

「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。」(新改訳聖書2017)

聖書によっては「野のゆり」あるいは「野の花」と訳されています。いろいろ調べてみますと、前述の通り、実際の「ゆり」よりも広い範囲の植物を指していて、グラジオラス、ハス、サフランなどの諸説があるようですが、アネモネであるというのが有力な説のようです。

「山上の説教」におけるイエス・キリストのメッセージはまず第一に信じる者に語られたものです。だからこそ「・・心配しなくてよいのです。」(31)、「まず神の国と神の義を求めなさい。・・」(33)と書かれています。「いのちは食べ物よりも大切であり、からだは着る物よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない。しかし、あなたがたの天の父は鳥たちを養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもずっと価値があるではないか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができようか。」という文脈の中で語られたものです。

「空の鳥を見なさい」(26)と空の鳥に目を向けるようにおっしゃったイエス・キリストは、今度は「野の花」に目と心と頭を向けさせます。「今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」(マタイの福音書 6章30節)

多くの人が野の花をじっくりと見たことがあると思います。そしてその美しさに感動するはずです。確かに今、美しく咲いていても、やがて枯れてしまいます。よく見れば実に見事に細かいところまでよくできていて、人間にはとても作り出せない精巧さを持ち、美しさを持っています。イエス・キリストは、そのような野の花に見ることのできる神様の創造の美しさと、当時人間の繁栄の頂点を極めたと言われるソロモン王とを比較しています。人間が手にする最高の繁栄も、野の花の美しさには及ばない、しかも信じる者を、ねんごろにお取り扱いくださるということです。

私たちは、上記の聖書のことばに自分の持っている価値観や人生観、さらには神観を問われるのではないでしょうか。野の花はやがて枯れてしまいますが、神様は私たちに、イエス・キリストにある「罪の赦し」や「永遠のいのち」を与えてくださるお方です。そして私たちの日々の歩みを確かにしてくださるお方でもあられます。聖書を通して、それらのテーマについての理解が深められ、さらに生ける真の神様に信頼し、委ねて歩むことができますようにお祈りいたします。