牧師感話 6月 ~思うこと・感じること~

早くも6月を迎えました。これから梅雨の時期を迎えていきますが、天気というものは私たちの生活と密接に関係していますので、多くの人が天気予報を毎日確認し、また天気によって、いろいろな計画や予定の変更を余儀なくされることもあります。

5月最後の週に、被災地熊本を訪れる機会がありました。益城町を中心とする地域に地震が発生してから、1年以上が経ちました。だいぶがれきなどが片付いたところもあれば、震災後からまったく変わらない、手がつけられていない地域もあることに気づかされました。被災者の方々も、仮設での生活はなかなか慣れなかったり、多くのストレスを抱えておられることと思います。行政の方々もいろいろと大変ですし、現場で働く方々も、これから梅雨、そして暑い夏を考えますと、熊本や東北の復旧・復興のため、そして日本という国のために祈る必要を、牧師として実感しています。

地震や自然災害などが起きるとよく開かれる聖書の箇所があります。それは詩篇46篇前半です。

46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ

この詩の作者がどのような背景や状況の中で、この詩篇を歌ったのかは定かではありませんが、どのような背景であるにしても、天地の創造から終末に至るまで神様がその歴史を支配しておられるという認識の中で、告白しています。作者は神様がどのようなお方か(1節)ということを知的に知っているだけでなく、神様を実際的に体験しているがゆえに、たとえ2-3節に書かれているような自然現象の変化が起こったとしても「われらは恐れない」と大胆に宣言しているのです。ここで「私は」ではなく、「われらは」と言っています。詩篇は詩なので、詩的な表現ではあっても、このようなことが文字通り起こっても不思議でない今の世界、時代に生きていますし、環境の変化が見られます。

2節の「われらは恐れない」という言葉もすばらしい宣言ですが、その前の「それゆえ」という言葉の重さを感じます。神様は1節のような「避け所、力、助け」、「それゆえに、わたしたちは恐れない。」と大胆に告白しています。しかし現実は恐れるのが人間であり、私たちです。しかしたとえどのような困難、ここに描かれているような自然の変異(天変地異)が起ころうとも、神様が共にいてくださるという約束がここに書かれています。ですから私たちは恐れる必要がありません。キリスト者とは神様の約束それは聖書のことばの約束に生きる民、生かされている民なのです。

私たちは頼りにならないものを頼みとしたり、頼るべき真の神様を忘れて、右往左往してしまうことがしばしばあります。目に見えるものや、移り変わりゆくものによって影響を受けやすい者です。またよく一般的に言われる表現に「苦しい時の神頼み」ということわざがあります。これは日本人の特質をよく表しています。しかし「苦しい時の神頼み」ではなく、「あらゆる時の神への信頼」が私たちには求められています。苦しいときだけでなく、嬉しいときも、楽しい時も、たとえ悲しいことがあったとしてもあらゆる時に神様にお委ねすることが本来のあるべき姿です。物事が順調にいっている順境のときも、その反対の逆境のときにも、です。

私たちは私たちの限られた頭で物事を判断し、理解することしかできません。ものごとのすべてを把握することはできないのです。しかし、それでも聖書の約束の確かさ、神様のご真実と愛とに応答する生き方が絶えず求められているのではないでしょうか。