2月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも2月を迎えました。風の強い日もあれば、比較的穏やかな日中の時もあります。故郷の群馬では、からっ風が吹き、赤城山からの「赤城おろし」が人々の体だけでなく、心までも冷えさせるような寒い時期が続いています。写真は隣の綾川町にある北條池です(萱原橋から撮影したもの)。

私はつい最近まで2月が一年で一番寒い月だと思っていました。しかしいろいろ調べてみますと、ほとんどの県において、統計的には2月よりも、1月のほうが若干、寒いということがわかりました。それはいろいろなデータを見ればわかります。まさにそれは私の「先入観」あるいは「固定観念」というものでした。

実は日本人に限りませんが、人間は自分が経験したこと、あるいは部分的に知っている事柄から、先入観を持っていたり、さらに言えば、「偏見」や「誤解」というものまで持っています。例えば、「キリスト教は外国の宗教である」と考える人が多くいます。確かに聖書の舞台はイスラエルであり、私たちとはまったく関係のないことのように思えます。聖書に出てくる人たちの名前や地名も、なじみがなく、それもカタカナの名前、カタカナの地名ばかりです。

今、日本ではアメリカの「沈黙~サイレンス~」という映画(遠藤周作氏の「沈黙」が題材になっている)が上映されているようです。それは江戸時代、迫害の中にあるキリシタンを扱った映画です。日本にはずっと仏教や神道といった習慣や教えが根強くありますし、自分は無宗教、多神教であると考える人もいます。キリスト教が禁教されてきた時代が長かったということもあり、なかなか人々には受け入れられていない現実があります。

その一方で、お祭りや初詣、七五三などでは神道に関わる神社に行き、大人になるとキリスト教式のチャペルで結婚式を挙げ、クリスマスもとりあえず祝い、仏教式の葬式で人生を終える多くの日本人にとって、「あなたの宗教は何ですか?」という単純な質問は、非常に難しい質問かもしれません。

しかし聖書を読むと、キリスト教は外国の宗教ではなく、全世界の人々のものであることがわかります。まず「キリスト教」に「教」をつけると、たくさんの教えがある中の一つと捉えてしまいますが、厳密にはそうではありません。クリスチャンはキリスト教というありがたい教えを信じているのではなく、キリストを罪からの救い主として信じているのです。

聖書の使徒の働き17章24-25節には次のように書かれています。

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

まことの神様は「世界とその中にあるすべてのものをお造りになった」創造主なる神です。すなわち、「天地の主」であられます。ですから何かの助けがなければ存在できないようなお方ではなく、すべての人にいのちと息と万物をお与えになられたお方です。それだけ素晴らしい、偉大なお方であり、私たちを造ってくださっただけでなく、私たち一人一人に関心を持っておられるお方でもあります。

聖書全体を通して、神様がどのようなお方であるのかを知ることができます。聖書を読めば読むほど、私たちの先入観や偏見、誤解が解かれ、真の意味で正しい理解へと導かれる時に、聖書の素晴らしさ、そして神様の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのか、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味を知ることができるのです。人間にとって必要なのは神の愛ではないでしょうか。神様からのあわれみといつくしみが豊かに注がれますようにお祈りいたします。