12月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

早くも12月に入り、クリスマスの時期を迎えています。「月日が経つのは早い」ということは、年を重ねれば、重ねるほど、深く実感します。小さい頃は、月日に左右されずに生きていますが、大人になると時間に追われ、時間に縛られ、左右されながら生きていますし、ある面、あっという間に、時は流れていきます。

先日、家族で、徳島県三好市にある「かずら橋」というところに行きました。上の写真がその時のものです。かずら橋は、サルナシ(しらくちかずら)などのかずら類を使って架けられた原始的なつり橋のようです。もちろん安全のためにワイヤーも使われているようですが、床面は割木を荒く編んだだけであり、すき間から下にある川が望めました。こちら側からあちら側に行くまで、40メートルほどの距離を渡って行かなければなりません。7歳と4歳の子どもたちも、渡るのを怖がるかと思いましたが、意外に楽しんだようです(後で写真を見たら、やはり顔は引きつっていましたが・・・)。さすがに2歳の子どもは母親が抱いても渡れませんでした。

さて、神様と私たち人間の間には、大きな「へだたり」があると、教会でよく言われます。つまり人間の「罪」というものが原因で、真の神様のもとには、人間の力では届かない、到達できないということです。「罪」とは、真の神様を神様としないこと、神様に背を向けて、自分の思うままを歩むこと、的外れな生き方のことを指しています。本来あるべき姿からほど遠いのが、人間の現実の姿です。

両岸に橋があって初めてその川を渡ることができるように、神様のもとに帰るためには、神様ご自身が用意してくださったものを手段としなければならないということです。しばしば人間は自分の努力や修行あるいは良い行いによって、神様に受け入れられようとします。しかし私たち人間はそのような事柄で、聖なる、そして義なる神様に受け入れられることはできません。聖書にはこう書かれています。

「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が示されたのです。」(第一ヨハネ4章9節)

神様ご自身がイエス・キリストを遣わしてくださったこと、すなわち神様の側のほうで、神の御子であり救い主であるイエス・キリストをこの世界に、私たちの側に、贈り物(プレゼント)として送ってくださったということです。ここに神様の愛が明らかにされました。イエス・キリストの誕生は、今でも世界各地で記念され、互いに祝われています。人類は、神様によって造られたにもかかわらず、神様に背を向けて、さまよっています。まさに暗やみの中をもがきながら生きていると言えるかもしれません。そのような罪深い人間のために、神様は愛する御子イエスをおとめマリヤを通して、生まれさせてくださいました。神様自らが、救い主イエス・キリストを通して、人間の側に近づいてくださいました。約2000年前に、歴史的事実として、神様は救い主をお与えくださり、私たちはそのことを本当のクリスマスとして、心から感謝し、神様に礼拝と賛美をささげ、互いにお祝いするのです。

このクリスマスの時期、あなたの心に、救い主イエス・キリストをお迎えできますように、そして真の平安に満たされますように、そのためにも聖書が語る救いが何であるかを知ることができますように、心からお祈りいたします。そして国分寺キリスト教会のクリスマスの諸集会にぜひ、おでかけください。心よりお待ちしております。