5月 牧師感話 ~思うこと・感じること~

風薫る5月は暑くもなく、寒くもなく、過ごしやすい時期であり、4月の変化の多い時期から、ようやく落ち着きを取り戻す頃ではないかと思います。皆さんいかがお過ごしでしょうか。先月の大分を含む熊本地震では今もなお、余震が続いていますが、避難生活をされている方々の上に、神様からの慰めと平安がありますようにとお祈りすると共に、一日も早い、復旧と復興がなされることを願ってやみません。

考えますと、私たちが生活するこの国は島であり、周りを海で取り囲まれ、地震大国と言われています。ある意味で、いつ、どこで地震や災害が起きてもおかしくないようなところに住んでいるとも言えます。もっと広い視野で考えるならば、この地球自体、活動しているために、またそこに住む人間が自然に囲まれているために、その自然を通して何らかの影響を受けることは避けられません。それはこれまでの歴史が証明しています。それでも、私たちは日々、平安にまた平穏に過ごすことができるようにと願うのです。

「取り囲まれる」ということは、2つの面が考えられます。1つは、例えば、困難あるいは試練に取り囲まれるという意味で、それは私たちに不安やあせりをもたらします。その一方で、良いものに取り囲まれるならば、それはその人に平安をもたらし、安心感を与えます。例えば、よい人間関係に取り囲まれたり、安全な地域社会に取り囲まれるというような場合です。

また実際に目に見える美しい花々に囲まれるならば、のどかな、そして心なごむひとときを過ごすことができます。私の生まれ故郷のすぐ近くの「多々良沼(たたらぬま)公園」には藤棚があって、100mほどの短い距離ですが、藤に囲まれながらその下を通ることができます。また「城沼(じょうぬま)」の近くには「つつじが丘公園」があって、つつじのアーケードがいくつもあります。この時期の観光名所として有名です。

さて、聖書の中でパウロという人物は、次のように述べています。「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。・・」(第二コリント5章14節前半)とあります。「取り囲まれている」という言葉を聞くと、何か身動きが取れない、自由に行動できないと考えます。しかしキリストの愛が私たちを取り囲んでいるというのは、これとは少し違います。キリストの愛にすっぽりと囲まれ、覆われるということです。キリストの愛が皆さんを取り囲むほどに、イエス・キリストにとって皆さんの存在が大切なのです。神の愛、キリストの愛とはいったいどのようなものでしょうか。聖書には「神はそのひとり子【キリスト】を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子【キリスト】を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4章8~9節)とあります。【カッコは筆者が補足】

現代社会に生きていて、私たちはさまざまな問題にぶち当たります。「困ったときのカミ頼み」をすることがあるかもしれません。イエス・キリストの十字架を通してまず神の愛が私たち人間に注がれていて、自分を囲んでいるキリストの愛、自分を覆っている偉大な存在をいつも意識できるならば、平安や安心感が、わいてくるものと信じます。ぜひ、聖書を通して神の偉大さ、キリストの愛のすばらしさを知っていただきたいと思います。神様の豊かな恵みと祝福がありますように、お祈りいたします。